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なまはげ通信

2023/01/16

岡本太郎(芸術は爆発だ)男鹿のなまはげに感動1957年

秋工同窓会
 各 位
 秋工ラクビー後援会の船木です。

「岡本太郎(芸術は爆発だ)男鹿のなまはげに感動1957年 」 を紹介させていただきます。

大みそかの12月31日夜、秋田県の男鹿半島一帯に伝わる民俗行事「男鹿のナマハゲ」が男鹿市の各地で行われた。 ナマハゲとなった男たちが雄たけびを 上げながら家々を巡り、怠け心を戒め、災厄をはらった。 男鹿市船川港の増川地区では午後6時ごろ、4人の男たちが赤、青、金、銀などカラフルな色紙が張られた木彫りの面をかぶり 麻を編み込んだ新しい衣装を身に着け地元の神社を出発した。

増川地区もなまはげが途絶えていたがよそからの若者を呼び込み5年目を迎えた。 芸術は爆発だ。岡本太郎先生の1970年大阪万博の「太陽の塔」もなまはげからヒントを得ているのではないかとのご指摘もあります。

岡本太郎(芸術家)の男鹿半島

1957年、岡本太郎は日本列島の文化を検証する旅に出る。その旅の記録は『藝術新潮』に「藝術風土記」として連載され、『日本再発見』として刊行されるのだが、日本再発見の旅として最初に訪ねた場所はどこであったか。なんとそれは「秋田」であった。

かつて秋田県立美術館で「岡本太郎~仮面がいざなう旅~『藝術風土記秋田』」が開催された。展示の中心となるのは、1957年2月12日から16日にかけ、太郎が『藝術風土記』の取材で初めて冬の秋田を訪れて撮影したモノクロ写真28点だが、その前年に撮った縄文土器の写真と、それらの写真に付随してなまはげ面や秋田県出土の縄文土器なども実物展示していて、「岡本太郎が捕らえた秋田」を多面的に展観する内容となっていた。 なかでは、やはり一連のなまはげの写真が目を引く。太郎が見たのは男鹿市船川港の芦沢地区(増川地区の隣地区)のもので、急きょ招集された若者たちが衣装を着け、面を被り、なまはげになる。

その過程を見ていた太郎は、ここでも鋭い直感を働かせ、なまはげの本質をズバリ突くことばを残している。 <なまはげ>自体はそもそも鬼なのかどうか、問題がある。それはあらゆる原始的な人間社会に見られる<霊>のあらわれである。 何だか知らないけれど そんなものがヒョコヒョコ出てくる。生命の底の深みから―そういう生活に彩られた魔である。 「(なまはげが)人間だってことは見えすいている。怪物だが、それにしても、人間のしっぽを出しているような不恰好さはユーモラスだ。 これらは、鬼なり動物なり、神なりになりきっていない。人間でありながら、そのまま人間を超えている。どちらでもあるという、 その交錯に意味がある。鬼は鬼であって、人間ではない―という風に、ゲンゼンと戸籍がわかれてしまったのはかなり文化が進んで、 原始的信仰が失われてからのことだ。 それ以前は、人間と霊とは自在に交流していた」(『日本再発見―藝術風土記』「秋田」より)

「いわばとり残されたところに、生命の感動が生きている」 『忘れられた日本』で日本の南の端の沖縄を訪れ、“日本の原形”と言えるものを見つけた太郎が次に目指したのは本州の北の端、 東北だった。東北2県で延べ1週間、連載の取材を兼ねて、57年2月に雪の秋田へ、6月に初夏の岩手へ。 「私はこのような、いわばとり残されたところに、古くから永遠にひきつがれて来た人間の生命の感動が、まだ  なまのまま生き働いているのではないかと思った。たとえば『なまはげ』の行事などに」(『岡本太郎の東北』、以下同) まずはそう考えて、なまはげを見に向かった男鹿半島。その道すがら太郎は、極寒の地で生きる人々の顔つきに、 東京人が忘れてしまっている生き生きとした“人間的な深さ”を感じ取る。 東北には縄文や沖縄にも通じる“日本の生命”がみなぎっているのだ、と。

なまはげが「鬼であり、怪物でありながら、同時に人間である」ことの方に面白さを見出す。 「どちらでもあるという、その交錯に意味がある。鬼は鬼であって、人間ではない。という風に、ゲンゼンと戸籍がわかれてしまったのはかなり文化が進んで、 原始的信仰が失われてからのことだ。それ以前は、人間と霊とは自在に交流していた。 その超現実と現実、詩と散文の、不可思議なカネアイこそ、神秘でありながら生活的である。 そこにまた芸術のなまなましい感銘もあるのだ」 秋田のなまはげや岩手の鹿踊りなどの日本固有のもの、動物的とも言える人間の原始の生命力を全身全霊で愛した。 そしてそれが大陸文化によって惰性的に近代化し、変質し、滅びていくことを強く憎んでいた。 「(大陸文化を)もちろん日本的に消化はした。だが明らかに位負けだ。生活者としての創造的気魄、そのエネルギーがない。

(中略)下積みになりながら日本の土とともに働くもののエネルギーは、黙々と、執拗に、民族のいのちのアカシを守りつゞけて来た。 形式ではなく、その無意識の抵抗に、私は日本文化の新しい可能性を掴みたい」 日本民族として本来の姿を取り戻すための希望は東北にあるに違いない。その確信のもとに、岩手と聞いて真っ先に思いつく 芭蕉や啄木、宮沢賢治を「ひ弱なもの」と片づけ、鹿踊りなどのより土着的な郷土芸能に震えた。 自らの芸術に追求したのと同じように、東北に爆発する民族のエネルギーを求めていた。

そして、秋田、岩手を訪れてから5年後の夏、太郎は青森に辿り着く。今もシャーマンが暮らし、 民間信仰が残る地を前に、ここに求める答えがあると予感したのだ。 「このような神秘はかつて日本全土をおおっていたと考えられている。歴史の奥深くかくされた原始日本。 縄文文化の土器、土偶の、奇怪な、呪術的美学がこの気配に対応していないだろうか」 それは私の身体をとおって、日本人全体の生甲斐にひびいているように思われる」 その時、太郎は東北に熱き縄文人の面影を見ていたのだろう。 我々はいつでも太郎の言葉と共に原始日本を旅し、民族のあるべき根源的な生命力や 生き甲斐を取り戻すことができる。「日本人は爆発しなければならない」のだ。

岡本 太郎(おかもと たろう、1911年(明治44年)2月26日 - 1996年(平成8年)1月7日)紹介:
 日本の芸術家。血液型はO型[2]。1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。

◎滞仏生活とピカソの衝撃
 一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、岡本も東京美術学校を休学後、 親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた箱根丸は1929年(昭和4年)神戸港を出港、 1930年(昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごすことになる。

フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、 パリ大学(ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。「何のために絵を描くのか」という 疑問に対する答えを得るため、1938年頃からマルセル・モースの下で絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。

1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。 かの子は1939年(昭和14年)に岡本の帰国を待たずに逝去したため、これが今生の別れとなった。

同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの作品 《水差しと果物鉢》[注 3]を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。 岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。 (中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。

1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。そのメンバーには ピート・モンドリアン、ワシリー・カンディンスキーら錚々たる大家がいた。岡本はその協会の年鑑で、 「『形』でない形、『色』でない色をうち出すべきだ」とのメッセージを投げかけていた。

親交のあった戦場カメラマンのロバート・キャパの公私にわたる相方であった報道写真家ゲルタ・ポホリレに岡本の名前が 1936年よりビジネスネーム、ゲルダ・タローとして引用された。しかしゲルダの活動期間はとても短く1937年にスペイン内戦の ブルネテの戦いの取材に向かったが、戦場の混乱で発生した自動車事故で受けた傷がもとで死去した。 1938年シュールリアリズムの創始者アンドレ・ブルトン制作の「シュール・レアリスム簡易辞典」[4]に「傷ましき腕」が掲載された。 この絵画を契機に、岡本は美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会を脱退し、パリ大学ソルボンヌ校の哲学科に聴講生として通うようになる。 さらに民族学科に移り、そこで文化人類学者マルセル・モース教授と出会い、彼の講義から多大な影響を受ける。 やがて岡本は思想家ジョルジュ・バタイユとも出会い、盟友として親交を深めた。

◎太陽の塔
 1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、通産官僚の堺屋太一ら主催者(国)は紆余曲折の末 、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、 出来上がったのが『太陽の塔』であった。

この日本万国博覧会は各方面に影響を与えた。1975年(昭和50年)、『太陽の塔』の永久保存が決定。 現在も大阪万博のシンボルとして愛されている。

同時期に制作されたのが、前述の『明日の神話』であり、制作依頼者である実業家の破産の影響で長らく行方不明となっていたが、 21世紀に入り発見される。


外部リンク:
  〇岡本太郎 代表 20作品 : 
  〇岡本太郎の東北 : 
  〇岡本太郎 作品 :
 

                                                                                秋工同窓生の皆様 岡本太郎(芸術は爆発だ)男鹿のなまはげ の応援よろしくお願いいたします。


以上


   


1957年男鹿のなまはげ 芦沢地区 岡本太郎先生

20181215東北大学大学院留学生5名なまはげケデづくり増川地区

20181215東北大学大学院留学生5名なまはげ体験増川地区

20181231 人ゲストハウスでの反省会 増川地区 全国から

20181231 読売記者がなまはげ体験 増川地区

20190207_ロイター通信が増川地区のなまはげ世界に発信イレイン・リース ロイター編集局記者 

20191208 国際教養大学欧州カナダアメリカオーストラリア留学生とケデ作り 増川地区

20191231 人が繋がり集まる地 国際教養大学秋田大学学生他 増川地区 毎日新聞紹介

20201231 読売新聞、秋田さきがけ新聞に紹介(増川地区)

20210107 朝日テレビで増川地区放映登レイナさん 

20211231 増川地区なまは 筆者自宅

20221231 増川地区なまは 筆者自宅

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