今年もまた桜の季節となりました。もうそろそろ満開かな〜などと感傷にひたっていました。 このようなとき、平成21年3月25日午前8時過ぎに大学関係者から「体操の遠藤幸雄さんの訃報」が入りました。2年余りの病との闘いであり、奥様をはじめご家族のみなさまは本当に辛い日々だったと思います。心からのご冥福をお祈りいたします。
遠藤さんの死去は私にとって、2年前の平成19年1月18日横浜で亡くなられた伝統ある体操部の1年先輩である佐々木昭夫さん(M25)の訃報と同じように、とてもショックな悲しい知らせでした。
佐々木昭夫さんは、私が昭和20年入学し、新制高校となった端境期の6年間を体操の仲間として、苦楽を共にした最も尊敬できる人でした。(人柄や功績は、会報KANASA15号で澤木誠一会長が弔辞で述べています。)
6歳年下である遠藤幸雄さんとの出会いは、昭和27年8月23日、京都・同志社大学を会場とするインターハイの時にさかのぼります。前年度優勝は能代南高校であったため秋田工業高校も出場できるようになり、山方泰文先生引率の吹谷正・越後谷穆・四方忠夫のチームと1年生で個人参加の遠藤幸雄さんがいました。京都に応援に行っていた私に、山方先生は「悪いが遠藤君の面倒をみてくれないか」と依頼され、じ来今日に至っています。
遠藤幸雄さんは、昭和34年東京教育大学卒業と同時に日本大学文理学部体育助手として勤務し、かたわら体操部コーチに就任。遠藤さんは選手としても練習環境が整い、やがて国際舞台へと羽ばたくこととなりました。現役引退後も監督や部長を経験し、指導者として数多くのオリンピック選手を育てました。全日本学生選手権でも数度にわたり優勝させるなど、その功績は大きいものがあります。
閑話休題
遠藤さんは、秋工体操部創部70周年記念誌で、
「・・・2年生になっての大きな変化は、技の指導者とし
ての山方先生に、新しく体育教師として赴任された秋元行雄(後に小田原)先生が加わったことである。年齢差をあまり感じさせない先生の存在は、練習意欲を喚起させてくれた。そして、その秋に開催された第8回の国体(松山市)のメンバーに選ばれたことは画期的な出来事だった。しかも一般男子の部に出場した、ヘルシンキ・オリンピック大会の代表鍋谷鉄巳・小野喬選手との遠征は、私の人生を決めた。
・・・中略・・・
7名の新入部員(鈴木誠一、石井登、佐藤甫、高田耕
一、高橋恒雄、堀井弘)で始まり、全員最後まで頑張
り卒業できた『7人の侍』を誇りに思っています・・・」
と述べています。思うに遠藤さんは、小田原先生の人との「和」を大切にする教えを守ること、選手として先輩の良きトレーニング・生活のあり方との出会いが、(世界の遠藤になる)生涯を決めたような気がします。
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