還暦同級会

東京秋工会 幹事

澤田 昇
昭和42年建築科卒

去年のクリスマスの前、同級生の舘岡君から久し振りに携帯に電話がかかってきた。「12月29日に秋田で還暦の同級会があるとの連絡があったが、出欠の確認を頼まれている」とのこと。
私は、「中学校の連中でゴールデンウィークに新屋の日吉神社でおはらいを受け、お祝いをしているし、その後も何度も秋田に帰っているので、費用がかかりすぎて、今回は欠席」ということで返事をさせて頂いた。

年が明けて、舘岡君から再び連絡があり、秋田での同級会の写真と名簿が送られてきたので、会ってお渡ししたいとのことであった。二人とも小田急沿線に住んでいるので、会うのは早かった。早速、写真と名簿で出席者を照合したところ、数は合っているのだが、なぜか一致しない。いまだ未確認のままでいる。なにしろ、秋田での開催は昭和63年8月以来である。
ところで、東京から出席したのは何人かと思いきや、総勢17名のうち、越前君たったの一人であった。それだったら、いっそのこと東京でクラス会をやろうかということになった次第。(在京では平成14年12月以来となる。)「幹事は誰?」「言い出しっぺの二人に決まっているよな・・・」「そしたらまず、日取りを決めてしまおうか」というやりとりがあって、アルコールのせいもあって決着が早いのなんの。「せっかく名簿があるんだから、何人位になるかのメドをつけたいね」日取りを二人の都合に合わせて3月12日に決め、おもむろに電話をし始めた。
結局この夜だけで、在京17名中8人に電話をかけて、8人とも出席とのことであった。日取りは決めて人数のメドは立ったものの、それ以降、しりすぼまりになって、段々時間がなくなってきた。そうしているうちに、いつもの「音羽亭」でKANASAの編集会議があって、終了後一杯やった席で、そこを思わず予約をしてしまったのである。
 案内状やら、出欠確認やら、せわしく進めて、結局集まったのは当初の8名と世話役二人の10名となった。

当日、私は誰が出席するかを事前に把握していたので、それとなくすぐに分かったのであるが、やはり、「あれは誰だ?」と他の皆が思った人がこの中に一人だけいた。
卒業以来、皆が初めて顔を合わせる工藤君だった。
「重量挙げやってたよね」、「東中だったよな」、「今、何やってるの?」「名前が思い出せなーい・・・」等々の質疑応答が続き、名簿を眺めながら、今回の中では最も遠方となる前橋から駆けつけてくれた工藤君だったとようやく分かった様子。

 しばらく歓談の後、卒業記念アルバムを回し見しながら各自近況報告や、質問など面白おかしく時間が過ぎていく。
(メタポ゙、血圧、血糖値、γGTP、髪の毛、孫、今の仕事、前回会ったときのこと、・・・・・・)  タイミングをみて、秋工入学を目指していた頃の秋田魁新報の記事をふたつご披露した。
内容は、受験当時の出願1次締め切りと変更後の競争倍率である。当初、我が建築科は全県で二番目の2.11倍だった。しかし、変更後の競争率は1.84倍で採鉱科の2.04倍、冶金科の2.0倍を下回って三番目だった。いずれにしても、名門秋田工業を卒業できたのだから、「もっと母校愛を持って総会にも出ようよ」とPRはしたものの、快い返事で結束したかどうかは、定かではない。
ほどなく「今度は秋田と東京の中間の仙台でやろう」との提案があったが、「それだったら秋田に行くよ」とのことでこの提案は一蹴(いっしゅう)された。「時期にもよるけど、秋田の案内が急過ぎるよな。もっと早ければなー」・・・・・・

それよりも「歳(とし)もいってきたし、東京で毎年この頃に集まりたいな。次からは名古屋にいる4人にも声を掛けようよ。」との意見が出て、満場一致で採択され、それではと、幹事選出の段となった。自薦の鈴木君と今回の世話役舘岡君と私の3人に落ち着いた。

 「あ、いげねー。汽車さ間に合わねぐなる。」(工藤君が前橋に帰る新宿発の最終電車の時間が迫っていた。汽車=電車:懐かしい。)
「ほら、写真、写真。会報さ載せるがら、みんな入った写真いる・・・・。こっち、こっち・・・・・・」

「忘れ物ねように」
中締めもなく慌ただしくお開きとなった。21時ちょうどだった。   


出席者:小田桐猛、工藤敏幸、組谷正孝、古仲雅子、菅野勉、鈴木基良、田中和成、 舘岡準、丸岡進、澤田昇
開催日:平成21年3月12日