秋工建築科を卒業して・・


筒井 富夫
昭和47年建築科卒

今から、40年前になる高校1年の入学当時、コワモテの先輩たちが教室にあいさつという儀式があり、ずいぶん緊張したのを覚えています。今はそんなことがあるとは思えないけど。その頃、生意気な僕たちを時には愛の鉄拳でやさしく指導をしてくれた先生たちの事も思い出し、とても懐かしくもいい思い出です。

その頃は建築科が一クラスで、3年間一緒のクラスメートでした。私も含め数人以外は、とてもまじめな勉強のできる生徒たちでした。クラスのみんなは、個性的な生徒の集まりで、私もギター同好会などを作り、みんなと歌を歌ったり、他にも日本赤十字の秋田支部青年部に在籍をし、他校の生徒たちとの交流もあり、月に何回か施設の子供の慰問をしたり、高校3年の夏休みにはヒッチハイクで関西(神戸)へ 、飛び込みで喫茶店でのアルバイトを1週間。それから関東へ。東京近郊の町の公園で野宿をし、いろんな事に興味をもちながらの高校生活を送りました。

建築科のクラス40数名いる内に15人ぐらいは、卒業と同時に県外に就職をしました。私も、秋田駅から友達や家族に見送られながら寝台列車で神奈川県の建設会社へ就職しました。いきなりの社会生活になかなか立ち向かえずに1年ぐらいはホームシックにかかりました。でも泣きっ面を人に見せたくないので我慢をし、1年後に愛知県の建築現場へ行き現場事務所(すき間だらけのプレハブ)での現場生活。まだ二十歳にもならないのに、業者や職人さんたちはみんな年上。それでも現場管理上、監督という責任から、はったりをかましていたのを覚えています。それから東京、仙台などの現場を経験して、数年後に本社のある神奈川県に戻りました。

23歳で結婚してすぐに子供が生まれ、生活費欲しさに、給料がいい小さい内装会社へ入りましたが、数年で社長が夜逃げして倒産。給料も半年分もらえずに、いろいろ考えたすえに地元の中堅ゼネコンへ就職し、また一から現場監督としての仕事をしました。それから20年ほどその建設会社へ身を置き、神奈川県内でも建築Aクラスになり、私もセールスエンジニアリングとして課長職までになりました。

その間に建設業のいろんな部分を見てきてどうしても納得できないところがあり、自分で独立することを決意したのが、12年前です。どうしても建築の基本は住宅と信じ、住宅を基本にリフォームを主体とした建築会社を作りました。どんな仕事でもやらせていただきながら納得できる仕事をと思い現在もがんばっております。なかには、仕事を完成させても、いろんな理由づけをし、何百万も契約金を支払わないなど、契約違反のお客様もいます。そんなトラブルも何回かあり、これも経験という財産になるんだと、ポジティブに考えるようにして乗り切ってきました。

私が独立をする数年前に、息子が入っていた少年野球チーム 藤沢市立六会小学校のメイングラウンドとした六会レッズ(ムツアイレッズ)のコーチとして手伝わせていただく機会があり、その後、チームの代表。現在は、神奈川県藤沢市の野球協会の理事や藤沢市スポーツ少年団の常任理事などのボランティアとして、毎週土曜・日曜日を子供たち(小学生)と過ごしております。今年もすでに県大会への出場が自チームとして決まっており、関東大会から全国大会への出場を目指しております。15年以上も子供たちにかかわって思うことは、子供達に教えられることが数多くあるということです。いつも純粋に野球を楽しめるように子供たちの支えとなり、子供達にパワーをもらいながら自分たち(指導者)も楽しみ、どんなことがあってもあきらめない強い気持ちと、常にやさしさと感謝を忘れない心であり続ける事を思いながら、やり続ける事。

今思うことは、仕事も趣味も思い切り楽しんでやる。一度しかない人生だからこそ、自分を大切にすること。これに尽きると思います。これからも私はいろんな事を学ぶために働き続けるつもりです。

最後に会報作成の事務局の方、特に同級生の下総さん、投稿のチャンスをありがとうございました。そして伝統ある東京秋工会のますますの発展を願っております。