古希を迎えて (いつまでも挑戦)


生駒 茂
昭和33年土木科卒

14年前の朝6時前、通勤の車で地震ニュースの第一報を耳にした。一瞬に6千4百数十人の尊い人命を奪った阪神淡路大震災のニュースである。

 事務所に到着してからは、テレビにくぎ付けになったことを記憶している。当時、私は技術士の資格取得に挑戦中で自分の学習時間を早朝に充てる事が多かった。
 区画整理をテーマにして学習していた私としては、被災者の多くが木造家屋の倒壊による圧死であることに、ますます災害に強い環境を重視した市街地整備の必要性を感じたのである。

 昭和33年秋田工業高校土木科を卒業し三井建設本店土木部に配属され、高校卒業同期入社の5人で数週間の研修の後それぞれが現場に移った。今5人とも健在で月1回の東京での懇親会を楽しんでいる。
 順調なサラリーマン生活をすべて土木の工事現場で送り、地方転勤も軟らかく拒否し、昭和39年のオリンピックの直前に首都高速4号線の橋りょう(床版)工事に従事した以外はほとんど千葉・茨城県内の土木工事で過ごしている。

 ところが、42歳頃東京デイズニーランドの建設工事に携わったのは5月、その数ヶ月後に自律神経失調症という今ではうつ病と言われるような症状にみまわれた。
 普通に仕事をしている時は、誰でも100ヶ所程度の電話番号は記憶できるもの。これをすべて忘れ、また、言葉も怪しくなり手元も震えはじめた。4〜5ヶ所の病院を回り診察を受けたもののはっきりした治療法がなく約1年を過ごした。
 人間の寿命が、当時60〜70歳と延びているときに、これからの20年・30年をヨレヨレの姿で送るわけにはいかない。仕事は休まず消化していたが非常に寂しく厳しい時期でもあった。

 自分自身の症状を出来る限り和らげるために新聞等の音読、口の運動のために英会話の通信教育を受けたり、記憶を呼び起こすために仕事に関連する資格試験に挑戦したりとリハビリに努める毎日であった。また、定年後を考えた人生設計のためのステップアップ社内研修があり、いつの間にか年齢50歳過ぎの対象者となっており参加した。
 社内研修参加者の「受講きっかけ発表」の時に、定年後は宅地建物取引主任者の資格でもとって、うんぬん・・・という参加者が半数以上(10数人)いたかと思う。しかし、当時既に挑戦中であった私は、そんなに簡単ではないよ!と心の中でつぶやいていた。

宅建主任者の資格をパスし(平成5年)、まだまだリハビリの必要性を感じたとはいえ、大胆にも、土木技術士の資格に挑戦しようと思い立ったのは無謀すぎることだったと思う。
 会社に入社した頃、土木学会の雑誌は、とても難しく感じながら、土木施工という本は進んで読んでいたようには思う。
 早速、通信教育の手続きを行った。しかし、もともと現場のみの経歴であり建設部門でも、施工計画・施工積算・管理等の受講がふさわしかったにちがいない。しかし、あえて都市計画分野に挑戦することとした。
案の定、申込みの私の経歴書を見た通信教育の講師より、この経歴では都市計画分野で受験することは無理である、という指導であった。
しかし、5年ほど前から携わっている土地区画整理という自分の業務を充実させるために強くお願いし、経歴に多少の表現の修正を加え都市計画を選択することがかなえられた。
 受講レポートを提出する度に、原稿用紙半分ほど赤色ペンで削除・添削をうけた。提出また添削の繰り返し。
 現場経験のみの私に、都市計画部門の新しい用語が次々とたち向かってくる。その度に、自分の高校時代の教科書、会社での各種報告書さらに図書館に出向き学習しなければならない長い日が続いた。
所定のレポート提出を終え受講期間を終了し、ともかく1年目の試験を受けた。見事に不合格となったのである。

 2年目は自主学習で受験、失敗、3年目は再度通信教育を受ける事とした。2度目からは、受講費用の補助も受けられず、また見事に不合格となる。
 所定の通信教育レポートを提出するためには、一日平均2時間(結果集計)くらいの学習時間が必要であった。提出期限ぎりぎりになり、時には宅急便を利用し提出する事が度重なった。しかし、3年目も見事に失敗。4年目は自律神経失調症の後遺症らしき症状で試験開始時に緊張のため5〜10分ほどは腕が硬直し文字が書けない状況になっていた。

心・技・体を極めなければならないほどに過酷とも言える試験である。あきらめかけていた時に、朗報は届いた。この発表は、以前から年に一度か二度開催していた秋田工業土木科同級生の有志10数人でゴルフを主にした懇親会のときであった。私が当番幹事で千葉県九十九里海岸に宿泊していた朝、新聞発表となったのである。
 同級生の前でその新聞を見ているときは、多少興奮気味のようであったと思う。4年間、年間約750時間の学習を得て獲得した資格を私自身の大切な財産と考え、残された人生で日頃から学習に挑戦するということを大事に守り続けていきたい。

 現在、土地区画整理事業の事務局で区画整理事業の監理・運営業務に携わっているが、技術士の都市計画分野(建設部門)で受験した選択を、自信と誇りに思っている。

 私が東京秋工会に参加できたのは、平成11年会社の定年退職時に総会案内が届き少しは自分の時間を作れる状況と感じていた時かと思う。東京プリンスホテルの会場に出向いたとき、ゴルフ同好会を自分のホームコースである新千葉カントリー倶楽部において開催するという案内が目にとまり、即参加を申し出た。
 十数回参加している中で一度は優勝をさせていただいた。

現役当時、ゴルフ場の工事に現場代理人として従事したとき、計画・設計にも非常に興味を覚え、広大な土地(山野)を見るとゴルフ場の絵が浮かんでくるような時期もあった。一度環境アセスメントも含めたゴルフ場の認可申請業務に従事したこともあったが、この工事は社会経済環境の変化で認可直前に取り下げをした。環境アセスメントを含めた申請業務に従事できたことが、その後の技術士の資格挑戦につながったようにも思える。今後も、町並み・景観・都市環境を大事にした街づくりを学びながら、衰えかけている身体と頭の活性化を図っていきたい。

 同時に心・技・体の健康を永く保持できるように努め、温かい余韻を感じる秋工会の皆さんとゴルフを楽しみたい。 (平成21年1月17日 記 )