新幹事になって


赤川 均
昭和41年電気科卒

45年前の思い出を書かせてもらいます。記憶違いがありましたらご容赦ください。

秋田工業高校電気科2年のときでした。高校の廊下を歩いていると前方から背広姿の小柄な人が歩いてきました。「あっ、遠藤選手」と思わず声を上げたら、優しくほほえんでくれました。いまでもあの時の笑顔は忘れられません。

この年、東京オリンピックで遠藤選手は体操男子総合で日本悲願の金メダルを獲得していました。ソ連のシャハリンと金メダルをかけてトップを争い、あん馬で何度も足を引っ掛けましたが審判の長い協議の末個人総合優勝がきまりました。廊下ですれ違った遠藤選手はそのあと体育館での講演を行い、あん馬で失敗したことで、金メダルを辞退すべきだとのソ連の非難について、「金メダルほしさのダンマリ人間になってしまった」とのようなことを言ったように思います。また、当時の秋田魁新報に、遠藤選手は経済的に厳しく、学生服のズボンが古くなったが実習服があってありがたかった、との本人の思い出記事が載りました。確かに当時は、灰色の実習服を着て通学していた学生は少なくなかったと思います。

この年(もしかして翌年)東京オリンピックを記念して全国のスポーツで活躍した高校5校に対し、記念トロフィーが送られ、秋工も選ばれたと和田校長が体育館で紹介されました。東京オリンピックのあった1964年前後に秋工は、ラグビー全国優勝(1964年)、三浦投手を軸にした野球の春夏連続甲子園出場(1964年)、総体陸上競技での活躍などが目立ったと記憶しています。先輩や同級生のスポーツでの活躍は、秋工生全員を大いに奮い立たせました。

卒業後、私は東京秋工会の囲碁同好会に参加し、遠藤氏も囲碁をなされると聞き、いつかはお目にかかれることがあるかと思っておりましたが、先日、偉大な先輩の訃報に接し大変残念に思いました。

私は秋田県仙北郡協和町(現在の大仙市)で育ち、「兎追いし彼の山、小鮒釣り彼の川」の童謡そのままの少年時代を過ごしました。母の勧めるまま秋田工業高校電気科を受験し、合格できました。入学準備のため同じ中学出身の秋工の先輩に連れられ、千秋公園の長い石段の上から小雨に煙るあこがれの秋工が見えました。左に秋田北高校、手形山の方角はるかに秋田高校が見えました。

秋工の正門から入って明治時代に立てられたという木造の校舎を見て歴史の重さが伝わってきました。真新しいフェルト帽を買い金色に輝く秋工の校章をつけて、秋工生になれた実感がわきました。入学式のあと通学が始まりましたが、最初の1週間毎日遅刻しました。2番列車だと秋田駅でバスを待っているとどうしても5分遅刻します。歩くと間に合いません。担任の佐藤温先生からは、「どんな理由があろうと遅刻はよくないよ。」と諭され、同級生からは「遅刻の常習犯」といわれました。一番列車で通うしかありません。朝4時半暗いうちに起床、奥羽本線峰吉川駅まで8キロの峠越えの砂利道を自転車で30分、魚のにおいのする行商人でいっぱいの一番列車に乗り50分ほどで秋田駅につき、駅からは千秋公園経由または手形経由で秋工までは25分ほどの徒歩でした。毎日同じ駅から一番列車に乗る秋工生の仲間が5人できました。秋工には7時ころに着きました。自宅では休日以外はほとんど勉強できず、車内と高校での始業時間までの時間が勉強タイムでした。汽車が混んでいて座れないときは、英単語を記憶しました。前日にノートのページにぎっしり英単語や熟語を書き込み、次のページに訳を書き1ページ分の単語・熟語が全部記憶できるまで何度でも繰り返しました。おかげで苦手だった英語は得意科目になりました。専門科目では「電気理論」の複雑な電気回路の演習問題を解くのが好きでした。

秋田県全県から集まった同級生は、私には難しい数学の問題がスラスラ解けたり、ブラスバンドがプロのように上手だったり、油絵の展覧会で入賞したり、ラグビー全国優勝のメンバーだったり、パチンコが得意だったり、彼女がいたり、まさに多様でした。いなか中学出身の自分は、同級生から様々な意味で大きな刺激を受けました。女子高校生が大変まぶしくみえ、一度も口をきいたことはなかったけれど汽車通学での出会いの楽しみもありました。当時、舟木一夫の歌謡曲「高校三年生」がヒットし、高田美和主演の大映映画「17才は一度だけ」のロケが秋田市でありました。高校の制服や校舎のシーンは当時の経済短期大学付属高校のものでしたが、秋工前のポプラ並木が美しく、高田美和が制服で自転車を乗っているシーンが撮影されました。今でも「高校三年生」の歌を聞くと当時の思い出がよみがえり胸がつまる思いがします。親しかった友人の影響で、進学を希望し、大学へ進むこともできました。人生の多感な青春時代を秋工ですごせたことは大変幸運だったと思います。

昨年、東京秋工会の総会に初めて出席しました。諸先輩は今でも母校の特にスポーツ面での活躍を期待されますが、環境も時代背景も大きく違う現在の高校生に過度の期待は気の毒に思います。総会では同級生にも会え秋工時代の懐かしい話ができました。また、我々団塊の世代から後の卒業生の出席が少なく、とくに平成の卒業生の出席がなかったのが残念に思いました。

定年退職し3年がすぎ、以前から他のコミュニテーでも役員や幹事しており、このたび東京秋工会新幹事になりましたが幹事会などには参加できないこともあり申し分けなく思っています。

先日の幹事会で、東京秋工会ホームページ担当者が長年にわたり孤軍奮闘しておられることを耳にしました。現役の頃ホストコンピュータのプログラム開発の経験があったこともあり、比較的時間にしばられないホームページつくりを通してなら東京秋工会に参加できるのではないか思い、2月頃から自分のホームページ作成から始めてみました。

東京秋工会のホームページ担当者として、掲載記事についてのアンテナを張りめぐらせようと思っていますが、個人では限界もあり、皆様のご協力もお願いします。最後に、「高校三年生」の歌詞の一節を紹介します。「ぼくら 離れ離れに なろうともクラス仲間は いつまでも」 是非、同窓会総会へおいでください。