私の秋田弁ライフ(2)

  1. 東京秋工会 副会長 

  2. 地主 勝己
  3. (昭和37年土木科卒)

小田急新宿駅改良工事で現場監督見習いをスタートしたまでは良いのですが、失敗の連続でした。測量の手元としてスチールテープで距離を測る時は、電車のレールには信号用の微弱電気が流れているので絶縁体としてベルトコンベアーのゴム切れをレールとテープの間に置いて測るのだと指導されたことをすっかり忘れてことに及んだのです。即、信号が赤になり電車がストップです!!・・・ 怒られました、「お前みたいな馬鹿野郎は要らないから荷物をまとめて秋田へ帰れ!」と当時流行りの[東京ぼんた]が使っていたのと同じ唐草模様の大きな風呂敷を投げつけられました。私は所長に「ごめんしてください、ごめんしてください、秋田さだば死んでも帰られません、こごさおいでください、風呂敷はいりません」と泣きながら必死になってお願いしました。頭を上げて回りを見ると皆がゲラゲラ笑って私を見ているでは有りませんか!私は「人がごしゃがえでいるのを笑って見ているもの、なだもだ、これが東京なんだべな」と思うと同時に秋田から出で来る時の親父の言葉を思い出しました。「東京さ行ったら、箱根の山から向こうの人には気をつけろ、人の悪いのが多いから」と、なんでも、親父が軍隊に居たときに苛められたのが関西の人だったから、そう思うようになったと聞いたことがあるので、もしかしたらこの人たちもその類かなとしみじみその顔を見てしまいました。

電車の仕事は終電のあと線路閉鎖、起電停止を確認後、夜中の1時半から4時半までが作業の毎日です、作業が終わり朝風呂に入って飯を食べ寝るのが9時頃で、昼の2時頃には起こされ、今夜の段取りと材料の手配や測量と忙しく、休みは月に1度有るだけで、だんだん疲労が蓄積していたころ、またしても失敗したのです。真夏の熱い夜でした、その日の作業が終わり片付けをしている最中に眠くて眠くてどうにもならなくなり無意識に誰も居ない所を探して線路のレールを枕に寝てしまったのです、レールは冷たく気持ちよく爆睡でした、カタン、コトン、ガタン、ゴトンの音と同時に「この馬鹿け!どさねでらだ!電車にアダマひがれるべ!」本荘から出稼ぎにきている世話役のEさんでした。「このホジナシ!おめがえねがらさがしてだべ!もすこしおせば、おめだば死んでだべせ!あーえがったな」もちろん、目から火が出るほど怒られました。

現場生活にもどうにか慣れ、周囲にも目が届く余裕が出てきたのは2年目になってからでしたでした。O先輩が毎日5時頃にどこかに出かけるので「先輩は何時もどこへ行くのですか」と聞きましたら、夜間大学へ行かせてもらっているとのことでした、「わだしもえげるべが」と聞くと「試験に受かればここの所長が本社にお願いして行かせてくれるよ」とのことでした。O先輩から参考書を頂き勉強しました。日本大学理工学部土木工学科2部を受験しました。発表の日私の番号は有りませんでした!が、なんと補欠に有りました。あくる日所長と本社の人事部へお願いに行きました。人事部では「それはおめでとう、然し君が大学を卒業しても会社の扱いは高卒ですよ、何故なら山の現場や地方の現場の人は行きたくても行けません、不公平になりますからね。」まったくそのとおりだと思いますので宜しくお願いしますと答えて、いつも怒られている所長の顔を見ると仏様のような目で「大変だけど頑張れよ、人に迷惑かけるなよ、お前ならやれる!」と頭をコツンと叩いて笑っていました。これから私の勤労夜学生活が始まったのです。

新宿の現場が終わり、次の現場は京王線の高幡不動尊の裏の宅地造成工事でした。御茶ノ水までは1時間半ほどかかるので皆さんには申し訳ありませんが4時から5時の間に上がらさせてもらい、着替える時間が無いときは安全靴と作業服のままで学生食堂で「かけうどん」か「カレーライス」をかっこみ、教室の一番前は何時も空いているのでぎりぎりセーフで出欠確認に間に合っていました。ある日水理学の授業ぎりぎりに着席し、教授と目が合ってしまったのです。「近頃廊下や教室が汚れているのは君だな!靴ぐらい履き替えてきたらどうかね。」と言われました、その日はコンクリートの打設作業で確かに汚れていました「はい、申し訳ありません、これがら気をつけますのでごめんしてください。」と謝りました。「君訛っているが、出身はどこだ?」「はい、秋田です。」「秋田のどごだ?」「秋田市だす」「そうか、私は山形なんですよ。」「あ!そうですか宜しくお願いします。」、当初から先生は訛っているので東北の出身ではないかと思っていたので急に親近感を覚え、身内が大学に居るような気がしていました。それ以降、極力着替えて登校し下の写真のように垢ぬけた青年になったのです?

あの頃は業者で現場からの学生は少なく私は特異な存在でした。 級友も訛りが取持つ縁で、東北勢ばかり! 私は給料日になると授業の後、級友仲間を新宿西口の通称「小便横丁」へご招待し?酒と焼き鳥とおでんで盛り上がり、翌日は事務主任に給料の前借に行くのが常習でした。お蔭様で代返やレポートの代筆、試験の時は私の周りを仲間で囲み、先生に「地主の周辺は頭が動き過ぎる」と注意されるほど協力していただきました。彼らが居なければ4年で卒業できませんでした。

写真 左:佐々木(旧姓:松橋)、右:地主

 夜学生として普段職場の皆さんに迷惑を掛けていますので、土日も休まず現場にいました。そんな中たまの休みで唯一心休まるオアシスが有りました。それは秋田工業土木科同級生で日大商学部に進学し小田急線の祖師谷大蔵に下宿していた松橋君でした。休みの日は彼の部屋で寝転がって秋田弁で昔のハナシコしたり、銭湯で背中を流し合い、将来の夢を語り、2人で良く出掛けました。時には私の愚痴を「ワガル、ワガル」と頷いて励ましてれ、卒業後も秋田へ帰れば最初に会うのが彼でした。彼は敬愛高校の先生でしたので教え子を紹介してもらって振られたり!家庭を持ってからも家族ぐるみで付き合ってくれた生涯無二の親友です。
その松橋(結婚後佐々木)が去年の7月急逝しました。泣きました!泣きました!本当に残念無念です!もう直ぐ1周忌になりますが、私の心の中で彼は永久に不滅です。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。本当にありがとうございました。