還暦を迎えて 

  1. 東京秋工会幹事

  2. 北埜 博
  3. (昭和44年建築科卒)

昭和24年4月10日、今でいう手形山崎町、当時の手形字西谷地37番地で、全人口の12パーセントを占めるといわれる団塊の世代の最後の一員として生まれたらしい。
隣の家から駅裏東にかけては何も無く、見渡す限り田んぼで、今の手形陸橋から広面に通ずる道も、ただのあぜ道だった。
近くに今では見ることのできない、町内共同水汲み場、製綿工場、ため池などがあったこと、そして家の前を、大学と寮を行き交う学生が通り、鉱山学部なので留学生がおり、今では何でもない事も、当時としては珍しく、印象に残っている。
夏には磨り減った下駄に棒を付け、どじょうを追いかけたり、いなごを捕らえたり、また、うるさく鳴く蛙の合唱に悩まされたりした。冬には何を運んでいたかさだかではないが馬そりが通り、馬糞を落としていったのを覚えている。そんな、どことなくのどかで、閑静な高級住宅地で育ち、暮らした。
 このたび、生きてさえいれば、誰もが60歳で通る還暦について何か一筆といわれ、学業にも縁遠く、特に文章は苦手な自分であるが、その日を迎えるまでの思い出などについて、場当たり的にかいつまんで書いてみることにする。
 母の勤める幼稚園を出、秋大付属小に幸いにも最後のくじ引きで合格したのは31年2月だった。兄は幼稚園から入れたが、自分はダメだったため、ことのほか両親は喜んだ。決して裕福とはいえなかったが、服を買ってもらい、制帽をかぶり、写真館でとった写真を今でも大切にしている。
まずは前述のため池で粘土を取ろうとして、足を滑らせて池に落ち、それでも何とか九死に一生を免れることができた。それ以来、水が怖く、努力しないこともあるが、いまだに泳ぐことは基より、浮くことすらできないでいる。助けてくれた人に礼を言いたい。
また、当時は、自宅に電話をつけている家は少なく名簿には、呼び出しというのが多かった。我が家もご他聞にもれず、約200メートルくらい離れた電気屋さんにお願いしていた。あるとき、たいした用事でもなかったように思うが、電話をしたところ、急用かと聞かれ、思わず「はい」と答えてしまった。実は急用という言葉の意味を理解しておらず、遠いところ大変迷惑をかけてしまった覚えがある。その方は既に他界されたそうですが、あの世にいったら謝りたい。
 テレビの出始めのころ、近くには無く、国鉄に勤めていた叔父に盛岡に連れて行ってもらい、街頭テレビを見せてもらった。自分が3年、兄が6年で何の番組かは忘れたが、強烈な印象をもっている。
 休みには祖母が好きだったこともあるが、父によく山菜取りに手形山、勝平山などに連れて行ってもらった。近くまでは自転車で行くも、その後歩き、結構遠かったが、気持ち良かった。ワラビ、ゼンマイ、アザミなどは祖母がアクだしをして、おひたしなどに、ハツタケは父が焼いて燗酒に入れ、香りを確かめつつ、おいしそうに飲んでいた。その酒も、当時近くの酒屋へビンを持って量り売りで買ってくるもので、ビンに漏斗を立て升で入れたのを思い出し、それも日課だった。
母の実家は亀ノ町で有楽町に程近く、映画が大好きだった祖母によく観るにつれていってもらった。時代劇の東映系、アクションものの日活系が主だった。そんなあるとき、歴史上に残る人を三人書きなさいという問いに、「東千代之助」、「中村錦之助」、「大川橋蔵」と書き、正解と思いきや、先生には笑われ、親には程々あきれられた。それからしばらくの間、映画はおあずけ。
 そんな中、野球、卓球、スキーなどいろいろやったが、特に夢中になったものに模型飛行機作りがある。既に始めていた兄の影響もあったが、一番の協力者は図工の先生だった。先生が当直のときは、宿直室に泊まり、先生の力を借り、仲間とより早く高い位置にあげ、気流に乗せいかに長い間飛行させるかを考えた。当時は大会も多く、中には飛びすぎて見失うものも・・・、 受賞の機会も多かった。望んでもなれそうもない空へあこがれる夢を見る毎日でした。
 文字通り場当たり的に書いてきた。書きつくせるものではないが、どうしてもこれだけは最後に書いておきたい。それは昭和39年日本が大きく動いた年と思う。東海道新幹線が開通し、東京オリンピック、巨人・大鵬・玉子焼の巨人のV9のスタート。そんな中、縁があって、オリンピックの聖火リレーに伴走させてもらった。五輪のマークがついたランニングを着て、その先頭で聖火を持っていたのが先輩の佐々木福松さんだった。牛島の郵便局あたりだったと思う。
 還暦の祝いに子供らから旅好きの私に旅行券をもらった。どこへ行こうか、もったいなくて、土産の心配、そう考えているのが花。60歳を人生の折り返し地点と考え、もう60年生きたい。そのころ、社会はどうなっているのか楽しみ。その考えが野望かはそのうちはっきりする。