喜寿を迎えて

  1. 東京秋工会名誉会長

  2. 澤木 誠一
  3. (昭26年電気科卒)

平均寿命80歳の今日、満77歳になったのは人生の1つの通過点に過ぎません。然しながら、ここ迄無事に健康でこられたのは皆々様のお陰であると深く感謝しております。
 私は1985年(昭和60年)より谷藤正三前会長のあとを引き継ぎ、2008年(平成20年)迄東京秋工会の会長を務めさせて戴きました。
この間、1987年(昭和62年)には秋工ラグビーが第67回全国高校ラグビー大会にて15回目の優勝を勝ち取ってくれました。東京秋工会では東京プリンスホテルで祝賀会を開きましたが、その時は約200名の同窓生が参加され皆で喜びを分かち合いました。
また、1996年(平成8年)から2006年(平成18年)迄は秋高連の会長も務めさせて戴きました。 1959年(昭和34年)26歳で開設しました澤木萬國特許事務所もお蔭様にて息子と共に今も頑張っております。
 私がここ迄健康で長生きできました理由の一つは、20歳代から本態性高血圧で塩分制限に務めていること、仕事を続けてきたこと、そして何よりも同窓会等で若い方々と接する機会が多かったということにあると思っております。
 私は1945年(昭和20年)4月秋田工業学校電気科に入学しましたが、小学校6年卒業後直ちに工業学校へ入学できるようになった一期生でした。それ迄は高等小学校2年を卒業しなければ入学できなかったのが戦争の激化によって変ったのです。
1945年(昭和20年)8月14日の夜には秋田市におり土崎の大空襲を目の当りにし、翌8月15日(終戦の日)の午前中には米国グラマン戦闘機により機銃掃射も受けたことは、貴重な体験となりました。終戦により私共秋田工業学校1年生は新制中学1年生と名前が変り、4年後には秋田工業高等学校1年生にそのまま移され、都合6年間金砂校舎にお世話になりました。今でいう中高一貫校の走りでした。

私が東京に出たころの東京秋工会の会長は東京谷藤機械社長であるラグビー部出身の谷藤正三さんで、その前の会長は平野井雷治さんでした。東京秋工会は平野井雷治さんが戦前に設立されたと聞いております。然しながら、東京秋工会の資料は残念ながら戦後の混乱のなかで失われ、発足以来何年経過しているか不明な関係上周年事業は全く行なっておりませんでした。仮に発足の年が戦争を始めた1941年(昭和16年)の前年(1940年)であるとすれば今年(2010年)はそれから70年を迎えることとなります。1940年(昭和15年)を東京秋工会発足の年とし、今年を発足70周年と定め以後周年事業を計画し、実行していくことは同窓会の発展と継続の為に必要なことと思います。
 私が座右の銘としておりますのは『泣く子も鍋のはた見て泣け』で、好きな言葉は『為すは己れ、成るは天』です。