古希を迎えて

  1. 東京秋工会幹事

  2. 伊藤 芳男
  3. (昭和34年土木科卒)

このたび、会報「KANASA」編集委員会から古希を迎えるにあたって寄稿するよう指名され、筆を取ることになりました。この機会に自分の歩んできた道を簡単に振り返ってみようと思います。
 中学まで
 私は、昭和15年天王町(現潟上市)ニ田で2男3女の4番目として生まれた。終戦翌年の昭和21年に小学校に入学した。困窮の時代でしたが私たちは学校給食の経験がなく成長した。 中学時代には、新任の先生がサッカー部を作るということで誘われてサッカー部に入った。当時はまだサッカーの試合など観たこともなかったが、地区の試合では勝ったこともあった。
 中学卒業後は当然高校進学することを考えていたのだが、父の反対で受験の願書も出せない状態で途方にくれていたが、担任の先生に相談のうえ願書提出期限の前日に、希望する秋田工業に書類を貰いに行き、翌日持参し辛くも間に合わせた。試験は土木科を受け合格できた。もし進学が叶わなかったらどんな人生を歩んでいただろうか。父は苦学をして東京で建築を学んだ人だったが、私の進学に反対した理由はわからない。だが秋工の合格には喜んでいた。
 秋工生の頃
 秋工入学は昭和31年で、通学はニ田駅から秋田駅まで約1時間の船川線(現男鹿線)で通った。通勤・通学列車はまだ蒸気機関車が走っていたものだ。
 入学間もなく体操部の華麗な練習を見て心が動かされ体操部に入った。後に有名になった五輪金メダリストの遠藤幸雄選手が卒業した翌年に入部したことになる。当時秋田は日本を代表する選手を多く輩出したが、外国遠征するには費用が乏しい時代で、一線級の選手を招いて県内各地で募金のための演技会を開催し、我々体操部も演技会の前座を務め、また街頭に立って募金をするなどを手伝ったものだ。最近の国の補助によるスポーツ予算を思うにつけ隔世の感を禁じえない。
 秋工2年の時、私の出身中学である天王中学校の新築体育館の落成を祝う行事の一つとして、秋工の体操部が招かれて演技会が行われたことがあり、同中学の出身ということを紹介され、一番大きな拍手を貰ったことが思い出されます。 体操部での想い出はいろいろあるが、東京で行った合宿では当時大学生だった遠藤幸雄先輩たちと合同練習などを行ったことがある。また、悲しいことですが練習中の事故で亡くなったキャプテン三浦毅君のことが忘れられない。それは3年の夏、マット運動の後方宙返りで回りきらず、頚椎骨折のため入院し治療したが数日後に不帰の客となってしまった。監督の小田原行雄先生や部員一同病院に詰めきりで看病し、回復を祈ったが願いが叶わず涙にくれた。部活中の事故ということで、学校葬として執り行われ、私が指名されて弔辞を捧げた。生涯彼のご冥福をお祈りする次第です。
 秋工卒業後の進路については進学の夢もあったが、就職の希望を恩師の安藤晃先生(土木科長)にお願いした。先生から鹿島建設を受験すよう指名を頂き、宇佐見和雄君と二人で一次試験を仙台支店(当時)で、二次試験は東京の本社で受け、二人とも合格した。先生からはお前は無理だろうと言われていたが運が良かったのだろう。
 秋工卒業・就職
 昭和34年4月、就職した鹿島の本社で新入社員教育を受けた。この教育期間中の想い出として4月10日、皇太子殿下(現天皇)のご成婚の行事が挙行されたが、馬車行列を観たいと仲間と連れ立って、現在の最高裁判所がある土手に上ってあの華麗な行列を眺めた。また、当時の後楽園球場で初めてプロ野球を観戦したが、ナイターの美しさに感動した。まだプロ野球を観たことがなかった田舎者にとっては忘れられない一齣である。この試合は当時変則ダブルヘッダーがあり、一度に巨人を含め4球団の2試合を観ることが出来た。
 教育が終わり栃木県川治温泉にあった五十里出張所に配属された。湯西川温泉近くでトンネルと発電所の工事に従事したのが始まりである。その後ダム工事を主として山岳土木に約10年間、東京を中心に橋梁下部工事や土地造成などの都市土木に約6年間、その後再び山岳土木に従事したが、平成2年現場勤務を離れ、長野営業所の安全統括を努め、平成7年関東支店安全環境部に赴任して支店全般の工事の安全を担当した。
 平成10年、日本土木工業協会(土工協)に出向で赴き、建設業が自主的に公衆災害の防止活動を行うための組織である五団体合同安全対策本部で、火薬類対策部会および地下埋説物対策部会を担当し、平成17年3月、65歳で退職した。
 鹿島建設に39年間、土工協に8年間お世話になりましたが、大過なく過ごすことが出来た。お付き合いいただいた方々のご指導のお陰と感謝の念に絶えません。
 たくさんの辛いこと、楽しいことがありましたが、中でも昭和38年冬、NHKの全国放送「ここにも歌がある」の番組で “ダムに生きる”に出演したことである。厳寒の雪に埋もれた川俣ダムを背景に二日がかりの収録であった。この番組は、職場とそのエピソードや歌を紹介するもので、放映後多くの視聴者から励ましのお便りを頂いたことが想いだされる。
東京秋工会に参加して
 東京秋工会とのお付き合いは、平成7年に始めて会費を納めましたが、東京勤務になったのが契機だったと思う。ゴルフコンペ初参加は平成15年、総会に出席したのは平成16年からである。土木科の後輩で同じ鹿島の社員だった現副会長の地主勝己君の薦めで平成19年度総会から幹事の一員に加えていただいていますが、名ばかりの幹事で申し訳なく思っている次第です。同好会にはゴルフの他、三平会長や地主君などに誘われて詩吟同好会で勉強中です。東京秋工会は家族的な雰囲気であり、今後も永く仲間でいたいと思っております。
 私は健康だと思ってはいたものの、昨年4月に虚血性心疾患の診断で、心臓冠動脈のバイパス手術を受けました。術後は経過も良く特に問題なく生活しています。今後は生活習慣に留意しなければと自戒しています。入院の際は秋工会役員方々から励ましを頂きましたことに厚くお礼申し上げる次第です。終わりに拙文にてご容赦ください。