秋工と秋商の関わりと早逝した友を悼む

  1. 秋商東京雄水会 会長

  2. 和田 武男

東京秋工会発足70周年おめでとうございます。 昭和19年3月戦時非常措置により、秋商は22年度で自然廃校と決まり、第一学年の生徒募集を停止しました。そして工業学校に転換し、秋田市立工業学校として、応用化学科、土木建築科、冶金採鉱科を設置して、定員150名で秋商に併設されました。
しかし、21年には秋商は復活し併設の市立工業学校の生徒は、県立秋田工業へ全員編入しました。こうして一時期の秋工卒業の方は秋商生と同居して学び兄弟校でした。
 私は、昭和32年3月に大阪の家電メーカーへ入社いたしましたが、ここで私の人生の友となった、秋工電気科卒業の鎌田三雄君との運命の出会いがありました。 職場や職種は違いましたが、ある時期は寮の部屋も一緒で寝食を共にしておりました。
 私は職種がら転勤も多く大阪には3度勤務しましたが、大阪を離れてもお互いに家族共々交流が続き、ある時期に私は大阪の子会社に出向したら、彼の所属の中央研究所は大得意先であり、多いに面倒見ていただき公私に亘り一段とお互いの関係が深まりました。 彼は、メーカーの品質管理の要である「計測管理」を、中央研究所で在職41年間一筋に担当され、社内ではその道の権威者となり、定年前の数十年間は世界中の工場の指導に廻られておりました。その技術力は業界や、国の研究機関、学界の方にも広く認められて多くの人脈に恵まれていました。 
 定年後、平成11年に計測業界の方々(特に他メーカー)や、学界等の人脈に支えられて「NPO法人計測サビリティ研究協会」を設立して、自ら理事長の重責を担っておりましたが、病魔に襲われ短い療養期間で平成19年6月に志し半ばで早逝してしまいました。 彼の棺は秋工同窓会関西支部の皆さんによる、秋工校歌「太平山の凛たる雄姿………」 に送られて静かに旅立たれましたが、ありし日の彼の姿が今でも私の脳裏から離れません。
 又彼が大阪に来てから、秋工のラクビー部は40回も全国大会に出場し、6回優勝しており、いつも応援団の主役でした。結婚当初は近鉄花園ラクビー場近くに新居を構えており、秋工ラクビーと母校に対する思い入れは、尊敬に値いする格別なものがありました。
 時がながれ、昨年12月28日秋工ラクビー部は4年ぶりに「第89回全国高校ラクビー選手権大会」に62度目の出場を果たしました。私はこの日を待望していましたので、鎌田君と同期入社である冨田鉄人君(電気科卒)と一緒に、奈良の地にある彼の墓参の後、近鉄花園ラクビー場に久しぶりに応援に行きました。対戦相手は報徳学園で、先行してトライしましたが、かっての名門秋工の力量が発揮されず初戦敗退してしまいました。   試合終了後、東京の三平会長や関西支部福田支部長等多くの方々と、盛大で楽しい残念会に参加させていただき、ラクビーにかける秋工の皆さんの情熱に感動させられました。
末筆になりますが、この度投稿の機会を頂きました事に心からお礼を申し上げますと共に、東京秋工会の今後益々のご発展を祈念いたします。