戻る

会員寄稿

8年間にわたる活躍ねぎらう落合監督退団で県内関係者

2007年アジアチャンピオン11月

* 秋田県男鹿市の船木政秋氏(S44K)からの寄稿です。秋田さきがけ記事もいただきました。



秋工同窓会各位

秋田支店船木です。
「8年間にわたる活躍ねぎらう 落合監督退団で県内関係者  」 を紹介します。

中日・落合博満監督の退団の知らせに秋田工高時代の仲間や親族からは、8年間にわたる活躍をねぎらう声が寄せられた。

秋田工高時代の野球部の後輩で、今でも落合監督と家族ぐるみの親交がある男鹿工高野球部監督の加藤秀夫さん(57)=秋田市泉=は「コーチ経験がないまま監督に就任し、1年目でチームをリーグ制覇に導いた。就任当初からいい監督になると信じていたが、期待以上の活躍だった」と振り返った。

兄の落合一男(いちお)さん(66)=男鹿市角間崎、自営業=は「契約最後の年だったし、そろそろ終わりだろうとは思っていた。ご苦労さまと言いたい。
冷静な戦況分析や、一度決めたことをぶれずに貫き通す姿勢は見事だった。素晴らしい監督だったと思う」とたたえた。


プロ野球中日は22日、落合博満監督(57)=男鹿市(旧若美町)出身=が今季限りで退団、後任にOBで監督経験のある高木守道氏(70)が就任すると発表した。落合監督は今年が3年契約の3年目。球団側が来季の契約を結ばないことを伝え、同監督が了承した。シーズン終了まで指揮を執る予定。

中日は21日現在、59勝52敗7分けの2位で、首位ヤクルトとは4・5ゲーム差。まだ、優勝の可能性もある中で異例の発表となった。
落合監督は2004年に中日の監督に就任し、今季が8年目。昨年までの7年間でリーグ優勝は3度。07年には2位からクライマックスシリーズを勝ち上がって日本シリーズを制した。

落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日 - )は、秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球監督。2004年より中日ドラゴンズ監督。

選手歴
秋田県立秋田工業高等学校
東洋大学(中退)
東芝府中
ロッテオリオンズ (1979 - 1986)
中日ドラゴンズ (1987 - 1993)
読売ジャイアンツ (1994 - 1996)
日本ハムファイターズ (1997 - 1998)

監督歴
中日ドラゴンズ (2004 -2011 )

プロ入り前 [編集]
秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)にて7人兄弟の末っ子として生まれる。
中学・高校時代は、年間100本もの映画を観賞するほどの映画少年だった。特に『マイ・フェア・レディ』は7回見に行き、劇中歌の歌詞(英語)を覚えたほどだった。

秋田県立秋田工業高等学校では野球部に在籍していたが、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。先輩による理不尽なしごきに耐えかねて野球部を退部したが、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した[1]。
落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場した。

高校卒業後、東洋大学に進学するが、先輩がタバコを手にしたら素早く火をつける、などといった体育会系の慣習に納得できず、故障もし、わずか半年で野球部を退部して大学も中退。秋田に帰ってしまった。

その後、ボウリングのプロを志すがプロテスト受験の際にスピード違反で捕まって罰金を支払ったことで受験料が払えなくなり受験できず、これも挫折してしまう。
しかし、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気の府中工場に季節工として入社。同工場の社会人野球チーム「東芝府中」に加わった。
ここでの在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現して1978年アマチュア野球全日本代表に選出(森繁和も選ばれている)された。

同年のドラフト会議でロッテオリオンズに3位指名されて入団。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた[2])。なお、巨人は落合をドラフト2位で指名する予定であったが、江川事件によりドラフト会議自体をボイコットしたため、指名は実現しなかった。


中日監督時代 [編集]
就任早々、16人の選手の背番号とユニフォームのデザインを変更した。トレードの凍結を宣言し、主な補強は川相昌弘とドミンゴ・グスマンのみにとどめた。
キャンプ初日に紅白戦を実施。

2004年、3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎を開幕投手に起用、川崎は5失点で降板するも逆転勝ちした。エースの川上憲伸を3戦目に先発させ3連敗のリスクを避けると同時に、川崎の開幕起用でチームに刺激を与えることと、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめることが
目的と後に語っている。就任1年目にしてリーグ優勝を達成。日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ日本一ならず。

2005年、タイロン・ウッズの殴打事件による出場停止と交流戦における負け越しにより失速。2位に終わる。

2006年、監督として2度目のリーグ優勝を達成。日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフに球団と新たに2年契約を結んだ。

2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場。
4勝1敗で北海道日本ハムファイターズを破り日本一を奪取。本人いわく「プレーオフチャンピオン(価値のあるリーグ制覇を経ない日本シリーズ優勝)」ながらも、公式記録上53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。
これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞。

アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)2008年、監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストとなり、監督として最悪のシーズンとなった。福留孝介のメジャー移籍や北京五輪で5人の主力選手が抜けたことが響き3位に終わる。
クライマックスシリーズ2ndステージでは巨人に1勝したのみに終わり敗退。オフに球団と新たに3年契約を結んだ。

2009年、川上憲伸・タイロン・ウッズ・中村紀洋がチームを去り、谷繁元信がケガで離脱したこともあり、4月は負け越して開幕ダッシュに失敗。しかし、その後は巻き返し、7月には首位巨人に1.5ゲーム差まで迫ったが失速。12ゲーム差の2位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでも巨人に1勝したのみに終わり敗退。

2010年、井端弘和のケガによる離脱、トニ・ブランコの不調により得点力が大幅に低下。一時は首位に8ゲーム差をつけられたが、リーグトップの投手陣の働きにより9月10日に首位に立ち、巨人・阪神との激しい三つ巴の争いを制して、143試合目にして監督として3度目のリーグ優勝を達成。
クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズに進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきた千葉ロッテマリーンズに2勝4敗1分で敗れ日本一はならなかった。なお、2010年シーズン終了時点で7年連続で指揮した監督となり、与那嶺要(1972年 - 1977年)、
星野仙一(第二次政権時の1996年 - 2001年)の6年連続を上回り球団歴代1位となった。

2011年、1月14日に2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された[8]。表彰式は2011年オールスターゲーム第1戦(7月22日ナゴヤドーム)にて執り行われた。8月25日のヤクルト戦で通算600勝を達成。9月22日、3期目の契約はせず同年シーズン限りでの退任が発表される[9]。


 タイトル [編集]
三冠王: 3回(1982年、1985年、1986年)※史上最多。
首位打者:5回(1981年 - 1983年、1985年、1986年)
本塁打王:5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)※両リーグ本塁打王は史上初。
打点王: 5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)※両リーグ打点王は史上初、現在も唯一。
最多勝利打点:3回(1982年、1985年、1988年)
最高出塁率:7回(1982年、1985年 - 1988年、1990年、1991年)

  表彰 [編集]
MVP:2回(1982年、1985年)※優勝チーム以外から2度以上の選出は王貞治(1964年、1974年)に続いて2人目。
ベストナイン:10回(1981年、1982年=二塁手 1983年、1988年、1990年、1991年=一塁手 1984年 - 1986年、1989年=三塁手)
正力松太郎賞(2007年)
月間MVP:6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月、1989年8月、1990年5月、1991年8月)
IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1991年)
優秀JCB・MEP賞:1回(1990年)
オールスターゲームMVP:2回 (1983年 第3戦、1995年 第1戦)
野球殿堂入り (競技者表彰:2011年)

 記録 [編集]
シーズン打率:.367(1985年)※右打者歴代3位。
シーズン本塁打:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録。
シーズン打点:146(1985年)※パ・リーグ記録。
シーズン長打率:.763(1985年)※パ・リーグ記録。
シーズン得点:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録。
シーズン塁打:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録。
シーズン得点圏打率:.492(1985年)※日本記録。
シーズン出塁率:.487(1986年)※NPB公式での日本記録。ただし、出塁数を採用していた時代のセリーグの記録に遡ると1974年王貞治の.534が日本記録となる。
シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ。1996年は43歳になる年での達成で史上最年長記録。
シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一。
シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ。
シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ。
17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ。
2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年)※史上初。
両リーグ1000安打以上(パ1096本、セ1275本)※史上2人目。
両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本)※史上唯一。
1試合6四球(1991年10月13日)※日本記録。
5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 10月14日)
通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率。
通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者歴代1位。
通算350本塁打到達スピード:1257試合(1990年5月8日)※史上最速記録。
通算1000打点到達スピード:1284試合(1990年6月12日)※史上最速記録。
オールスター出場:15回(1981年 - 1991年、1993年、1995年 - 1997年)
オールスター通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ。
オールスター通算本塁打:11本 ※歴代4位。
オールスター通算打点:27 ※歴代3位タイ。
初出場 1979年5月29日 対南海戦(川崎)※代打
初安打 1979年5月30日 対南海戦(川崎) 森口益光から
初本塁打・初打点 1979年5月31日 対南海戦(川崎) 山内新一から
通算1000試合出場 1988年5月14日(276人目)
1000本安打 1987年6月2日 対大洋戦(ナゴヤ) 高橋一彦から本塁打
1500本安打 1990年9月5日 対巨人戦(東京ドーム) 桑田真澄から本塁打
2000本安打 1995年4月15日 対阪神戦(東京ドーム) 久保康生から本塁打

人物 [編集]
落合は20代で離婚後、ホステスをしていた9歳年上の信子夫人と再婚。愛妻家(恐妻家?)として知られる。
FA権の行使や監督就任などを決定させたことでも知られる。2人の間には長男・福嗣がいる。

東京周辺には秋工野球部出身者が約200名おり、落合選手が巨人軍時代、席が2席あり、よく東京の自宅・球場に秋工野球部出身者を招待されていたとのこと。自分も何度も招待されて自宅・球場に行きお世話になったとのことです。
語るのは、(株)ジャパンエナジー・秋田石油備蓄(株)本社・事業所にいました高橋せいきさん(秋工野球部出身者)の話です。

以上