先日メール仲間がJR京浜東北線車中で、ある文を目にして、大変感動しデジカメで撮って紹介してくれました。
ことしも8月15日の終戦記念日が近づき、故郷「秋田」に関することとしてお伝えします。(2009/08/05 赤川均 S41E)
天国のあなたへ 秋田県 柳原タケ
娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。
三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。
おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。
よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。
あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。
そしてそちらの「きみまち坂」につれていってもらいたい。
春のあでやかな桜花、
夏なまめかしい新緑、
秋ようえんなもみじ、
冬清らかな雪模様など、
四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。
力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね。
秋田県能代市二ツ井町にある「きみまち阪」の四季を織り込んだこの文は、だいぶ以前に読んだ記憶があったので調べてみました。
二ツ井町が主催した1995年2月14日バレンタインデー「第1回日本一心のこもった恋文」大賞に輝いた柳原タケさんがかいたものでした。柳原さんは当時80才(実は81才)で秋田市に住んでおられました。
この文は靖国神社の遊就館にも展示されており、「正論」編集長 大島信三氏のブログにもこの文と出合った時の感動が述べられています。
戦死した夫は三十二歳のままで柳原タケさんの心の中に生き続けています。
傘寿(さんじゅ)とありますから、この天国への書簡はタケさんが八十歳のときに書いたものであることがわかります。おそらくタケさん自身もずっと新婚当時の気持ちのままで夫と対話してきたのでしょう。
それにしても、なんとも瑞々しい文章です。愛情の継続性に驚嘆します。
同時に、つかの間の新婚生活しか過ごせなかった時代に巡り合わせてしまった不遇にことばもありません。
この一文をメモ帳に書き留めていましたら、三人連れの中年女性が立ち止まりました。彼女たちは読み終えたあと、嗚咽しながらその場を離れていきました。
「正論」編集長 大島信三
「正論」平成15年8月号 編集長メッセージより
また、佐藤緋呂子さんという日本画家のホームページに行き着きました。
佐藤さんは柳原タケさんのお嬢さんで、昭和12年秋田市生まれ、秋田北高校、秋田大学学芸学部の出身です。
佐藤さんのサイト
(受賞式の様子が載っています。ロングヘアーの黒いドレスの女性は佐藤さんのお嬢さんで花束を受け取っている人が柳原タケさんです。)
佐藤さんと柳原タケさんは二ツ井町からのご褒美としてアメリカ映画「マディソン郡の橋」で有名になったアイオワ州マディソン郡へ旅行しました。
佐藤さんは、飛行機のなかで、子供のころの父の思い出をつづっています。
.......
3 27歳の母を残して
父、淳之助はわたしが生まれて100日目に召集令状がきて出征し、その3年後に27歳の母を残して戦死した。
享年32歳だった。
父は亡くなる2ヶ月前の2月 わたしがもうすぐ3歳になる頃、中国北支山西省から一時帰国し一日だけ秋田に帰ってきている。
わたしはその日のことを不思議な出来事として心の奥にづっとしまい、しっかりと記憶していた。
物心ついて父に逢った、たった一度だけの日のことを。
祖父が経営していた『はかりや印刷所』の従業員の人々が気ぜわしく動き回り、祖父母、叔父叔母、そして母がその日は『そわそわ、ざわざわ』していた。
浮き立つような空気の中、その人『父』は現れた。
わたしにとって『父さん』という意味がわからないまま、みんなが『父さんだよ』という切羽詰った言葉の中に、とっても『大事な特別の人』なのだということをつよく感じていた。
眼鏡をかけ、髭を生やしたその人は少し恥ずかしそうに『おいで・・・・・』と両手を差し伸べた。
わたしは固くなって『抱っこ』された。
翌朝、雪の中をカメラを構えて叔父(洋画家・柳原久之助)が待っていた。
着物姿の父が両手を差し伸べたのに、わたしは母にしがみついたまま、その写真のなかにおさまってしまった。
父は差し出した手を袖の中に組み、わたしは気にしながらも母の腕の中にいて、そして一枚の親子の写真が残された。
それからずっとわたしは『悪いことをした』という思いに胸を痛め、5歳になるまでそのことを悔やみ続けていたのだった。
5歳になったある日、母と上京し皇居二重橋の前で大勢の兵隊さんたちに出会った。
その中でひときわ目立って凛々しい兵隊さんが振り向いた。『おいで・・・』と手招きしわたしに両手を広げた。
(アッ、今度こそは笑って『抱っこ』されよう・・・)あの時の人ではないと直感しながらもわたしは思いっきり走り、勢いよくその人の胸の中に飛び込んだ。
いままでのわだかまりが消えて心がスーッと晴れていくのを全身で感じていた・・・。
その人は父の隊長、杉山元 その人だった。
それは父の戦死から2年後母はまだ30歳の若さだった。
.......
佐藤さんが父への思いを抱きながら二重橋の前で胸にとびこんだ杉山元という隊長が出てきますが、この人は太平洋戦争開戦の立案・指導にあたり、佐藤さんの父が中国山西省で32才で戦死した時の参謀指揮官だった人でした。
後の杉山元 元帥は昭和20年9月12日に司令部にて拳銃自決しています。また「はかりや印刷所」は明治時代の創業で楢山本町にあったようです。
佐藤さんのウェブに次の写真と文がありました。
「洋画家の叔父・柳原久之助(やなぎはら・きゅうのすけ)が撮ってくれた親子3人の貴重な1枚です。この3ヵ月後に父は戦死しました。」
*佐藤さんからメールをいただき、柳原久之助氏は秋工の美術の先生をしていたことがあった、とのことです。
*当ページを掲載してから長い月日が過ぎましたが、多くの人からいまだにネット検索で見ていただいていることを知りました。佐藤さんのサイトなど情報が古いままだったので訂正しました。(2020/06/03)
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