秋工同窓会
各 位
秋工ラクビー後援会の船木です。
「 秋田竿灯閉幕 4日間快晴 人出110万人(秋工高校で唯一参加) 」を紹介させていただきます。
秋田市の秋田竿燈まつりは8月6日、4日間の日程を終えて閉幕した。 フィナーレの夜本番では、差し手とはやし方が熱の入った演技を見せ、観客は夜空を彩る「光の稲穂」を堪能した。 夜本番は竿燈大通りで午後7時過ぎに始まり、256本の竿燈が一斉に立ち上がった。 「どっこいしょー、どっこいしょ」のかけ声と、笛と太鼓のおはやしが響く中、差し手が長さ12メートル、重さ50キロの大若を手のひらや額、肩、腰で上げる技を次々と繰り出した。
秋田工業高校は高校唯一の竿燈として参加している。
小松浩行下希町竿灯会代表: かけ声があって、昨年より気持ちが高ぶった。4日間快晴で、怪我無く終えられてよかった。
竿燈まつりは、真夏の病魔や邪気を払う、ねぶり流し行事として宝暦年間にはその原型となるものが出来ていたという。 現在残っているもっとも古い文献は、寛政元年(1789)津村淙庵の紀行文「雪の降る道」で、陰暦の7月6日に行われたねぶりながしが紹介されている。 このときにはすでに秋田独自の風俗として伝えられており、長い竿を十文字に構え、それに灯火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩き、その灯火は二丁、三丁にも及ぶ、といった竿燈の原型が記されている。
元々、藩政以前から秋田市周辺に伝えられているねぶり流しは、笹竹や合歓木に願い事を書いた短冊を飾り 町を練り歩き、最後に川に流すものであった。 それが、宝暦年間の蝋燭の普及、お盆に門前に掲げた高灯籠などが組み合わされて独自の行事に発展したものと言われている。(秋田県公文書館蔵「風俗問状答」より)
笹や合歓木に願い事を書いた短冊を下げ、それを手に練り歩き川へ流して真夏の邪気や睡魔を払う「眠り流し」が原型とされている。 眠り流し自体は江戸時代以前より行なわれており、宝暦年間には現在の原型があったとされ、五穀豊穣や無病息災、技芸上達を願って、旧暦7月7日にあわせて行われる七夕行事とともに、旧暦7月15日のお盆を迎え入れるための一連の行事として現在の形になったとも言われている。 眠り流し」という言葉が訛り、秋田市では「ねぶり流し」と呼んでいる。
竿燈は、外町(町人町)に住む職人や商人によって始められ、お盆に門前に立てる高灯籠を持ち歩けるようにしたのが始まりとされている。 次第に灯篭も数十個と下げるようになり、力を競うようになっていった。蝋燭や提灯が町民にも普及したことや、力よりも技を競うようになったことで現在の形になったとされている。いつから現在のような形態になったのかは定かではないが数々の資料から背景を探ることができる。寛政元年(1789年)に書かれた「雪の降る道」には、現在の竿燈に近い姿の絵が描かれている。
文化11年(1814年)に書かれた「秋田風俗問状答」には平手で竿燈を持ち上げている絵が描かれている。 慶応3年(1867年)に書かれた「出羽の道わけ」には頭に乗せて演技する姿が描かれている。 竿燈の語源は景徳傳燈録の百尺竿頭須進歩からヒントを得て、大久保鐵作によって名付けられたとされている。 また、昔は作り灯篭、ネブリナガシ、七夕とも呼ばれていた。1980年(昭和55年)1月28日、国の重要無形民俗文化財に指定された。
外部リンク
〇秋田竿灯まつり 画像 :LINK
〇秋田の竿灯 無形民俗文化財 :LINK
〇秋田市竿灯まつり :LINK
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以上
ろうそくのお守り
大雨乗り越え竿灯スタート
希望の灯になって
提灯のつくり
提灯の町紋
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