吾々の生きた時代

  1. (特に戦争を主として)

  2. 小野寺繁郎
  3. (昭和17年電気科卒)

大正14年(1925)生まれの85歳。
 工業の卒業は繰り上げの昭和17年12月。  幸い健康に恵まれ陸上短距離の練習を継続中。目標はマスターズ陸上競技全国大会のメダルである。今年は9月下旬国立神宮競技場で開催される。
極めてのんきな後期高齢者であるが、加齢とともに人は枯れて達観するというが、老人の健康、孤独などの不安は無いことは無い。
時には戦争の暗い思いに浸ることもある。歴史好きの私は、明治以降に集中していたが、最近は柳条湖事変の15年戦争などに興味が集中するようになった。
明治以降の時代を、ある学者は次のようにまとめている。
 「幕末から日露戦争の大勝まで、40年」
 「大勝から米国に挑戦大敗まで、40年」
私はこの滅びた40年の丁度半分を生き、終戦を20歳で迎えたことになる。 この時代の世相を毎日新聞社の社説と、作家の日誌を借りて述べることにする。

「昭和金融恐慌で幕が明けた、治安維持法による弾圧、政治家へのテロ、将校の反乱した2.26事件など起き、太平洋戦争へと突き進んだ」と朝日新聞(07.04.29)
永井荷風の昭和11年2月14日の日誌によると。
「日本の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なきことの3事なり」と。
自覚なき国民というが、私が入隊のとき上司から、「この戦争は負ける、生きて帰ってこい」と、ソットささやかれた記憶がある。そのとき、こんな勇気の必要な忠告を迷惑とさえ、思ったほどであった。
この上司は高等商船学校出身の欧州航路の機関士だったとのことで、職場では偏屈ものとして敬遠されており、私もあまり好感をもてない人であった。
また軍隊で一緒だった30歳近い人で、南方の島から命からがら引き上げてきた人で、徴兵猶予の特典を失い入隊だったようで、嗤笑気味の語り口は、「それは・・・それは、良く生きて帰れたものだよ、幹部候補生さん適当にやったら良いよ」と、いつも終わりのほうは涙さえ見せながら、「負けるよ」と云っていた。

○工業・就職・軍隊の5年間に触れて見ることにする。
 とにかく大変な時代の筈なのに、戦争による緊迫感のようなものが無かった。あまり余計なことに拘泥しないように教育されたせいか、それとも緒戦の大勝利により負けないと信じきっていたのかもしれない。

○ 昭和17年(卒業)
 緒戦から続いていた各地区の勝利から、わずか6ヶ月でミッドウエー海戦で大敗した。この戦は敵側に暗号が解読されて いたことによるものだと云われた。その結果太平洋戦線の優位が崩れる転機となり、ガダルカナル島上陸が始まり、戦局の崩壊が始まった。
こんなときの卒業であったが、立派な卒業アルバムを作り、例年より控えめだと思うが、謝恩会を千秋公園の店でやった。
進学には制限があり、人員は10%、文科系への進学は禁止であった。

○ 昭和18年1月 〜 昭和20年2月(就職)
 就職は軍隊までの期間約2年
就職は切符制で、県内を希望したが枠が無く、日本国有鉄道(現在のJR)の建設部門に決まった。場所は新潟県、担当は千手発電所の3号機(3万KVA)の据付工事、この発電所は16年卒の先輩たちが見学したとのことを赤石先生から聞いて赴任した記憶がある。
 とにかく見るもの、聞くもの全てが驚くものばかりで、建物は大きく、本線機関車が建物の中に出入りしたり、200トンクレーンが天井を走行するなどの大規模工事でした。
このころの戦局の方は勝機などほとんど無く、ガダルカナル、インパール、サイパンなどの転進、玉砕が繰り返され、特攻隊出撃と悲劇が繰り返されていたころである。
 土木のほうは秋田の栗原組が担当で、先輩の照井さんがおられ、仕事、私生活で随分とご迷惑をおかけしたが、終生思い出の場所は「コシヒカリ」の本場であり、都会に比べると、食料入手も楽なほうであり、結構楽しいものであった。

○ 軍隊(昭和20年3月 〜 8月)
 入隊は山口県徳山市の陸軍船舶隊 私は第14期として一次試験に合格、二次の甲乙判定〔甲:将校 乙:下士官〕の試験前に終戦となる。
すでに東京大空襲以下本土の空襲、沖縄戦、原爆、ソ連参戦など、15年戦争を通じて日本国民が受けた惨禍の大半が、昭和20年3月以降に集中している。日本の死者は最近の調査によると約310万人を数えるといわれている。
本土決戦が叫ばれていた時代である。私たち本土部隊も爆弾を抱えて、敵戦車に飛び込む運命だった。幸い無事帰還できたことになる。

○ 復員(8月下旬)
 山口県から品川まで、有蓋貨物列車、広島の惨状は今でも脳裏に残る。途中の食事、その他は全く覚えていないが、品川経由で無事秋田に帰る。

○復職(昭和20年9月)
 鉄道関係の組織が無事だったので、復職ができた。今度は千手変電所の下流の小千谷発電所の新設工事を担当することとなった。1、2号機(2万5千KVA2台)の工事で、完成は昭和25年予定、総工事費60億、職員千人の大工事であった。この仕事は私の一生を決めてくれたようなものである。

○ 私の従事した仕事(昭和20年9月〜昭和56年)
     発電所建設工事      18年
     電化変電所新設工事    20年
     東海道新幹線保全工事    3年
     電化機器関連メーカー営業 14年
 電化工事では、東京オリンピック前の東京近郊の変電所関係の工事を担当し、41年ころから、奥羽、羽越、東北各線の電化工事に従事した。

 現在東京・秋田間の所要時間4時間で旅行可能になった工事に関係したことは幸運だったと思っている。3年のときの工場見学の旅行に比べて、15時間近く時間を短縮することに関係できたことは、工事屋冥利に尽きるものであり、秋田県にご恩返しができたものと思っている。