私と母校秋田工業高等学校


  1. 塚本 憲
  2. (昭和41年建築科卒業)

昭和41年建築科卒業 
 私は昭和38年、男鹿市立北浦中学校から母校秋田工業高等学校に進学しました。 時間的に電車通学は無理なので、学校の寮に入りました。クラブは中学校の時に体操部に入っていたので、高校でも体操部にしました。寮生活と体操部の部活動と両方体験することができました。寮はイ室からニ室までの4部屋あり、各部屋の大きさは12畳で1部屋に1年生から3年生まで、3〜4人ぐらいずつ、各部屋合計10〜12人ぐらいずつ共同生活をしておりました。同期の寮生は16〜17人ぐらい居たと思います。それぞれ個性が強く元気な新入生でした。
 起床は6:30、寮生全員近くの武道場に集合し、ラジオ体操を行い、洗顔・歯磨き・トイレ等を済ませ、7:00〜7:45(8:00だったかもしれない)の朝の自習時間に入ります。 終了後、寮の部屋続きの食堂で朝食を済ませ、教室に向かいます。2〜4分ぐらいで教室に着いたような気がします。寮生がそれぞれの学習・部活動を終え、夕方寮に戻ってきてからは17:00から食堂で夕食を取ることができました。19:00〜21:00は夜の自習時間でした。終了後、勉強を続ける人、新聞・本を読む人、寮生と話し込む人、誰かに手紙を書く人、ギターを弾いて歌いだす人、腕立て伏せ・腹筋運動を始める人、22:30の消灯時間までそれぞれ自分のやりたい事をして過しました。
 寮に入り、すぐ新入生全員が武道場に集められ、2年生から寮生活をしていく上での決まり・生活態度の注意事項の説明を受けました。寮歌の練習が始まり、大きい声でさらに大きい声で歌う訓練が行われました。入寮して10日ぐらいだったかもしれませんが、まだ校舎全体の配置も頭に入っていない頃でしたが「度胸試し」が行われました。始まりの時間は定かではありませんが、夜暗くなってから、いつもの武道場に新入生全員が集められ始まりました。内容に付いて、コースは歴史のある古い校舎をほぼ縦断し(一部外周りも通る)、要所に置いてある番号の書いた紙を集めて帰ってくるもの でした。一人一人時間の間隔をあけて出発させられました。始まる前に2年生がいろいろな話をします。「・・・・あそこの階段は、夜段数を数えると昼数えるより1段少ない」「・・・中庭の池の側にある木で昔首吊り自殺があった」「・・・今回のコースに入っている便所は夜何かの呻き声が聞こえる」他にいろいろ言われ、中学校を出て間もない新入生を恐怖のどん底に落とすには充分なものでした。コースを歩いていくと、ところどころに2年生が隠れており、幽霊の真似や呻き声を出したり、置いてある紙を手探りで探す所にコンニャクを置いたり、タイムリーな演出をし、驚かしておりました。戻ってこれなくなった新入生もおり、終了したのは真夜中だったと思います。
 寮生活に少し慣れてきた頃、新入生が武道場に集められ、2年生から説教を受けます。「朝早く起きて新聞を取ってきて(新聞配達員が町の中で配っている所まで走って取りに行く)、自分の部屋の3年生の机の上に置くように」「自習時間が終わったら自分の部屋の寮生から注文を集め、町の店に買い物に走るが、全力で走り他の部屋の人に負けるな」 「新聞は3年生・2年生・1年生の順で早く読み、次の部屋に早く廻すこと」 「先輩より先に新聞を読むな」「先輩に大きい声ではっきり挨拶をすること」 「先輩には標準語を使うように、ンダス チガウス ワガタス ンダスカだよ、ワガッタガ」 「おめがだ秋田工業高校に入たんだから頭は良いはずだ、寮の決まりぐらい直ぐわがるべ、なんでしっかりやらねんだ」「おめがだフテぞ」「最近タルンデイル」・・・大きい声で怒鳴られ、最後に「ワガッタガ」に対し、1年生全員が2年生の納得する大きい声で「ワガッタス」で説教は終わりましたが、説教の儀式は忘れた頃に何回も行われました。
 教室での勉強が終わると、寮に帰って体操着に着替えて廊下を走り、体操部の練習を行う体育館に向かいます。体育館に入る時は大きい声で「お願いします」と言い、一礼して入ります。すぐに同期と一緒に器具の準備をし、先輩達と一緒に練習に入ります。同期は12人、2年生は7人、3年生は8人でした。1年生の初めは体力づくりでした。 平行棒でアームを強くする運動は、腕のバーに接する部分に血がにじみ、息ができなくなりそうでした。体操部の練習は全員それぞれ真剣に行っておりました。小田原先生(旧姓秋元先生)は私の担任であり、体操部の先生でもありました。いろいろとお世話になっておりました。2年生からの熱の入った教育(ヤキ)は練習が終わる直前に告げられました。「1年コ、今日全員部室に残れ。」狭い部室のコンクリートの床にひざおりをさせられ 「おめがだヤルキあるのが」「器具はパッパと早く据付ける」「体育館に入る時の声が小さい」 3年生と狎れ狎れしく話をするな」「もっと真面目に練習しろ」「2年生より早く帰るな」「部室をもっと綺麗に掃除しろ」「挨拶をしっかりやれ」「朝練をサボルナ」・・・・・・ いろいろ言われ「ワガッタガ」に1年生全員が大きい声で「ハイ」と答える。次に1年生は 6人の2年生から一人ずつ「歯をくいしばれ」と言われ、目にも留らぬ速さの平手打ちを頬に頂く。翌日何事も無かったように、いつものように部活動の練習は行われる。ヤキは適切な期間を経て繰り返された。翌年私達は2年生になり、寮生活でも体操部でも説教・ヤキの歴史を繰り返し、質実剛健の秋工魂の伝統を守ろうとした。秋工体操部の活気の盛んな頃に席を置いていたような気持ちがする。校歌・応援歌・寮歌を歌うごとに質実剛健の校風が身体に染み込んでいった。あの3年間で鍛えられ、精神的・肉体的に成長していったことは、私が社会で生きていく上での基盤が形成されていたのだと思う。忍耐力と責任感、あの3年間を過ごしたことによる自信が卒業後の私を支えてきました。秋田工業高校卒業後建設会社に入り、工事管理の仕事を44年間してきました。病気で会社を休むこともなく勤めることができました。        
 私は昭和57年親綱先行支柱を考案しました。28年経った現在も当時と同じタイプの物が、安全意識の高い現場監督のいる工事現場の枠組み足場の組立て・解体作業に使用されております。労働災害防止に少しは役に立っていると思います。私を育ててくれた母校のお陰と感謝しております。これからも秋田工業高校OBとして、恥ずかしくない人生を送っていこうと考えております。