終戦直後の学生生活


  1. 若杉 威
  2. (昭和25年電気科卒)

私が在籍していた昭和20年からの5年間は、戦中・戦後の大混乱期でした。入学当時は米軍の飛行機が秋田にも飛来し、そのたびに空襲警報が発令され、うっとうしい毎日を過ごしていました。それでも神風がふいて日本は必ず勝つと信じて疑わなかった13才の少年が、敗戦を知らされ、騙されていたと悟ったときのショックは大変なものでした。
 その後、首都圏から疎開していた人や軍隊から復員してきた人がクラスに編入してきたり、次の年には日満工業学校の廃校に伴って編入してきた人がいたりして一時クラスは60人にも膨れあがりました(昭和24年と25年卒業生名簿参照)。軍隊から復員してきた人は皆年齢が1〜3才年上で、特攻隊の生き残りという人も2人いました。その一人に、「なぜ特攻隊を志願したのですか」と聞いたときの答えが意外にも「上官からいじめられ、毎日が地獄だった。これなら死んだ方がましだと思った。」というのです。「お国のためを思って志願した」という答えを予想していたのですが、これは意外で、またも大変なショックを受けました。
アメリカ兵が来たら女は強姦され、男はどうされるか(生死)はわからないと言われていたのですが、これも真っ赤な嘘でした。
むしろ、占領軍は、戦後の日本から軍国主義を一掃し、民主化することに力を注ぎました。 しかし、我々の周辺は何も変わりませんでした。 戦前は、下級生は上級生を見たら挙手で敬礼をしなければ殴られるのが当たり前でしたが、戦後は軍隊調の挙手が無くなっただけです。上級生は恐ろしい存在であることには変わりありませんでした。私は新屋から汽車で通学していましたが、昭和21年秋のある日、学校の帰り下級生全員が新屋の駅から上級生に日吉神社に連れて行かれて怒鳴られたうえ殴られると言う事件がありました。今ではいじめと言って社会問題になるでしょうが、戦後まもなくで、軍国主義の悪習をぬぐいきれなかった当時はまったく問題にもならなかったのです。
 4月には応援歌の練習と言って最上級生になった生徒が、下級生に気合いをかける日が一週間続きます。昭和22年4月、いよいよ最上級生になりました。早速、応援歌の練習です。しかし、私たちのなかでは、最上級生になった今こそ上級生も下級生もない平等な学園を作るチャンスととらえる人が多くいました。応援歌の練習前に、最上級生のクラス委員で今までのような下級生を脅すような暴言は慎むこと、ましてや暴力は絶対しないことを確認し合いました。しかし、実施してみると、暴力は無かったけれども下級生を脅す暴言や脅迫は相変わらずでした。
初日終わってから、見ていた生徒監(生徒係)の小山直幹先生が壇上に立ち、「今年の上級生は大変紳士的で立派であった。」と言ったのです。私はすぐ職員室に行って小山先生に抗議し、応援歌の練習は中止させると宣言したのです。幸い、午後の一時間目は各クラスともホームルームの時間でしたので、まず、私のクラスの全員と話し合ったうえで機械科のクラスに行って話をして中止の了解を得、その後他のクラスの了解をとって中止を決めたのです。
私たちは最上級生を3年続けましたが、その間、応援歌の練習はその日の1日だけでした。ところが、私たちが卒業した年には応援歌の練習が復活したのです。
 戦後、民主主義の世の中になったと言ってもあまり変わりませんでした。戦前の思想が身に付いている年配の人には自由・平等の考え方は理解できなかったのも無理はないと思われます。したがって、若い人のなかにも民主主義を理解できない人がいたのは無理のないところでしょう。そのなかで私たちは、最上級生だった3年間学園の民主化、自由・平等に力を注ぎました。下級生の上級生に対する敬礼の廃止、服装・着帽・頭髪の自由は昭和22年に実現しています。服装・着帽・頭髪の自由は、生徒係になられた深井博之先生のおかげです。先生は後に秋田高校の教頭先生になられました。そのとき服装の自由化問題がおき新聞タネになったのですが、それを解決したのは深井先生でした。「秋工百年誌」275頁に「長髪許可問題と制帽の廃止」という記事が載っています。昭和42年度の生徒会長だった畠山敏美さんが「長髪許可までの道」という記事を寄稿して当時の苦労を語っています。これによって、私たちの時代に獲得した服装・着帽・頭髪の自由も、応援歌練習の廃止と同様長くは続かなかったことがわかります。 私たちが卒業した昭和25年3月は戦後の大不況で、卒業生15名(前年の3月、クラスの大半が旧制で卒業)の中で就職できたのは3名だけでした。それが6月25日に朝鮮戦争が起きて景気が回復し、全員が就職できたのでした。
  私たちが最上級生だった3年間で大きな出来事は、高校ラグビー日本一を3年続けたことでしょう。
ラグビー秋田工業の名を知らしめたのは、昭和23年から25年の3年連続優勝です。 主将は原田秀雄君(昭和25年機械科卒)、私の同級生は加賀谷良雄君(昨年死去)、大山実君、海浮謙吾君(死去)の3人です。海浮謙吾君は、ラグビーの監督や母校の校長になられた佐藤忠男さんと小学校同級生で、小学校では級長をした優秀な生徒でした。小学校では私の2年先輩です。軍人を志願して工業入学が遅れたのです。早く亡くなられ、大変惜しい人でした。
加賀谷君は早稲田大学から東芝に入社し、後に関連会社の社長をずーと務められました。大学時代、東芝時代ともにラグビーの選手として活躍されました。2007年には東芝のラグビー選手OB会会長になりました。東芝がその年度のラグビー日本一になったので大変喜んでいましたが、残念なことにまもなく亡くなられました。