美術館の開設を予定している旧長谷山邸前に稲架を組み立てる鎌鼬の会メンバーら=7日、羽後町田代 (秋田魁新報電子版サイトより)
土方巽没後30年の今年、秋田県羽後町田代地区に「鎌鼬美術館」の開設が予定されています。
三平会長からの情報で、NPO法人「鎌鼬の会」が、秋田魁新報社が主体となって運営する購入型クラウドファンディングサービス「FAN AKITA(ファンあきた)」を利用し10月11日まで支援金を募っています。目標額は200万円としています。
NPO法人鎌鼬 : 「細江英公と土方巽が羽後町田代を舞台にした写真集「鎌鼬」を撮影したこと、ならびに土方巽の父が羽後町出身であることにちなんで、両氏の活躍を広く国内外に伝えることを目的に活動」。
鎌鼬美術館にちなんで、2016年6月1日から7月15日まで、東京港区三田の慶応大学アート・スペースで、「KAMAITACHIとTASHIRO展」が開催され、昨年の東京秋工会総会で土方巽について講演して頂いた森下隆先生から、三平会長宛に案内が届きました。以下はその時の報告と関連情報です。
6月1日、三平会長、奥山洸、市川正、赤川均が三田の慶応大学正門前にある慶応大学アート・センターを訪問しました。
写真集「鎌鼬」(1969年現代思潮社)は、米沢生まれの写真家細江英公(ほそええいこう)が1965年、土方巽(秋工卒)を被写体として、東京巣鴨、目黒と土方の父の故郷秋田県羽後町上郡に近い田代で撮られました。
展示会場で、桜庭文男氏の写真、秋田朝日放送の藤原峰氏がドローンなどで作成した田代の風景映像、写真集「鎌鼬」などを観ました。
その後、2階で森下先生と今年の東京秋工会総会での講演について相談しました。 昨年の総会では、土方巽についての講演を急遽追加したため十分な時間が取れなかったので、今年は40分として舞踏ダンサーの演技も予定しています。
18時半から奥山さんを除く3人は、慶応大学構内の教室で開催された「稲架(はさ)のある里」と題されたシンポジュームに参加しました。
「鎌鼬」には土方が稲架の上で遠くを見つめているものや、稲架の傍で土方を笑顔で囲んでいる村人たちの写真があります。稲架を使って刈った稲束を干す農家は少なくなりましたが、自然の日光で干した稲は保存もよく、脱穀した藁を「羽後牛」というこの地域のブランド牛は好んで食べます。牛の排泄物は肥料として土壌に帰り再び植物を育てる。これを「循環農業」と呼びます。
ゲストスピーカーとして秋田から、桜庭文男(写真)、藤原峰(映像)、本間恵介(茅葺き職人)が参加しました。
桜庭文男氏は、昭和41年秋工電気科卒で、現在秋田市川尻で写真館を営んでいます。主な写真集として「ザ・五能線」(星雲社 1994年)、「茅の家 雪国の古民家」(丸善 2008年)など出版しています。
ライフワークとして茅葺き民家の撮影を30年以上続けており、羽後町には茅葺き民家が40棟以上残っていて大部分が田代とその周辺に点在しているという。茅葺き民家を宿にしたいと相談されたことから、羽後町田代に通うことになり、「鎌鼬美術館」に関わったとのことです。
この日展示スペースで配布された小冊子に書かれていた森下先生の文によると、細江秀公は1959年舞踏の最初の作品と言われる「禁色」を初めて見て狂気し、以来、終生、土方との交友が始まりました。また「禁色」の初演を見た作家の三島由紀夫が「広い東京にこれ以上面白い舞台芸術はない」と絶賛しました。
その後、南欧風に設計された三島の自宅や、土方の稽古場であるアスベスト館などで土方も三島とともに被写体となり、細江英公撮影による三島由紀夫の裸体写真集「薔薇刑」が誕生しました。
1963年の「薔薇刑」の出版から2年を経て、細江は「鎌鼬」の撮影に取り組むことになります。
土方の故郷である秋田に加え、東京の柴又、巣鴨などでも撮影され1969年に写真集として刊行されました。
1970年 細江は芸術選奨文部大臣賞を受賞。
2003年 英国王立写真協会の記念式典で「生涯にわたり写真芸術に多大な貢献をした写真家」として特別勲章を授与されましたた。
2010年10月には文化功労者に選出されました。ちなみにこの年の文化功労者に選出された15人の中には、王貞治(野球)、水木しげる(漫画)、山中伸弥(医学)、吉永小百合(俳優)の名前もありました。
ロンドンにある国立近代美術館「テート・モダン」で開催されている「カメラにむけたパフォーマンス」展に「鎌鼬」の写真が展示されている。
(TATE MODERN EXHIBITION "PERFORMING FOR THE CAMERA" UNTIL 12 JUNE 2016)
*** 英語の説明文をGoogleで自動翻訳してみました。***
細江英公は、日本の写真家の偉大な世代の最後の生き残りメンバーであり、 「先生」や「マスター」として、でも彼の仲間によって、記載されています。彼の作品は今古典と正式に美しく見えますが、細江は、1960年代の前衛の最もカラフルな文字と協力し、彼の若さで画期的なアーティストでした。彼は、政府だけでなく、より多くの従来の俳優やダンサーを打倒するために失敗した後、儀式自殺したことで、日本の有名な作家(とボディービルダー)三島由紀夫、と働きました。彼の最も有名な作品は、日本舞踊の動き、舞踏を設立ダンサー、振付師土方巽、で作られました。豪華な写真集として出版され、鎌鼬は、日本では、田舎に長い草の中を歩くときに足を切断すると信じていたずらの精神を指します。
羽後町に設立される「鎌鼬美術館」は、明治15年に建てられた田代の大地主の邸宅だった旧長谷山邸の内蔵(母屋の中にある土蔵)を予定しています。
秋工時代写真クラブに入っていた市川さんは数年前に秋田市で、桜庭さんと会ったとのことでしたが、赤川は50年ぶりに会いました。この日じっくりと桜庭さんの写真と、説明に接して、自分の育った子供の頃の秋田県大仙市の風景と、当時の人たちとの関わりに郷愁を感じました。
正直言っていまだに、舞踏についてよく解っていませんが、舞踏の世界のみならず写真でも土方巽という舞踏家が、多くの人に影響を与えた、との思いを強くしました。
左から市川正(S41E)、赤川均(S41E)、三平会長(S39A)、桜庭文男(S41E)
秋田県出身者として、羽後町については西馬音内盆踊りしか知識がなかったので、Googleなどで 田代について調べてみました。
人口632人、男298人、女334人、世帯数201(平成22年国勢調査)
275号線をはさんで左 旧長谷山邸、右 かやぶき山荘 格山(Googleストリートビュー)