戻る

会員寄稿

相馬御風・「忘れ草」 佐藤稔著 より

2017/09/17

庶民の自分史をありのままに書いて発表しあう「ふだん記」と称する全国的なグループ活動があり、1968年八王子市の文化・歴史研究家 橋本義夫氏(1985年没)の提唱によって生まれました。

秋田工業学校電気科を昭和22年に卒業した 佐藤稔氏が、ふだん記新書「忘れ草」を2017年3月7日発行し、三平会長宛てに数冊寄贈されました。

「忘れ草」表紙B6判

257ページの内容は、高速道路関連の仕事で転勤になった良寛の地元新潟で没頭した良寛研究、良寛に感銘を受けた文人・作家などについて、かって高校生の長男を亡くされたことが心にあり参加した四国遍路、自身の趣味の詩・俳句・絵画について、胸腺症・肺癌・前立腺癌・食道癌に罹ったこと、「老い」、「別れ」「生き甲斐」について、「念山の歩み」として自分の幼少時の頃から新潟へ転勤し退職するまでのこと、米寿を迎えたことに感謝し、最終章「これから」では「身体は老いても心は老いてはならない」と結んでいます。

この中で、秋田工業高校校歌の作詞者「相馬御風」について数ページを割いてありましたので、転記紹介します。なを佐藤氏は東京都渋谷区恵比寿にお住まいで東京秋工会会員です。

相馬御風

相馬御風 : (1883年7月10日~1950年5月8日)は日本の詩人・歌人・評論家。本名は昌治。新潟県糸魚川市出身。早稲田大学文学部哲学科卒業。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や童謡の作詞者としても知られる。 歌舞伎研究者の相馬皓は三男。( ウィキペディア)

~ 以下 佐藤稔著「忘れ草」より ~

相馬御風は 一八八三年(明治十六年)新潟県糸魚川市大町の宮大工の長男として誕生した。 父は徳治郎、母はチヨの一人っ子である。生来病弱で少年時代はコンニャクなどと仇名された。 父は後に糸魚川町(現在糸魚川市)の第四代町長を勤めている。 彼の本名は昌治である。彼は十七才のときに母が亡くなる。十八才のとき高田中学校の国語教師下村千別により、歌を詠むことを本格的に学んだ。

佐々木信綱の主宰する「竹柏会」に入会した。また金子童園が選者となっていた「新声」に 短歌を投稿したりした。  御風を名のったのは、中学五年のとき、北宋の詩人蘇東波の「前赤壁賦(ぜんせきへきふ)」にある詩からとったものである。その詩は浩々呼として虚に馮り風を御して、その止まる所を知らざるが如く、飄飄呼(ひょうひょうこ)として、世を遣(わす)れて独り立ち、羽化して登仙するがごとし」( 水と空が融けあうひろびろとした水上。心は風に乗り空を馳せる思い、世を忘れ羽化登仙するおもい)、いわゆる明月と水、清風と自然に没入する安心の境に浸らんとすることである。

次いで、早稲田大学英文科を卒業する。そのなかには、会津八一、野尻抱影などがいた。 御風は早稲田に入ってからの活躍はめざましかった。卒業と同時に島村抱月らと「早稲田文学」の編集に、片山天弦、白松南山らと共に参加した。  早稲田大学の校歌「都の西北早稲田の森に・・・」の作詞は御風が二十五才のときである。  また、三十一才の頃、島村抱月の芸術座に参加し、これが機縁で翌年一世を風魔した須磨子がトルストイ原作の「復活」の劇中で歌った「カチューシャの唄」の作詞も島村抱月との合作である。

その当時、御風は四方八方飛び廻って多忙であった。一方、父は都会生活になじめず、また妻も健康にすぐれないため、郷里へ静養させる決心をする。御風はその後単身での東京の生活は相変わらず多忙であった。東京から家族を思う気持は片時も離れなかった。この間に妻(照子)あてに書簡二十数通を送っている。

やがて一九一六年(大正五年)三月に、御風は十四年の東京での生活を一切放てきして、突如越後(糸魚川)に定住する。   「還元録」という今迄の生き方を自己批判した本を書いて、故郷に隠遁した。

糸魚川に帰郷してから、糸魚川中学校の英語担当の講師になる。この中学校の教頭(後に校長となる)山崎良平(一八八一~一九五六)は良寛研究者であった。山崎氏に勧められて、西郡久吾著「北越偉人沙門良寛全伝」を読んで、御風は良寛研究を決心する。

そして、原田勘平(一八八七~一九七四)らに手紙を送って、指導と協力を頼んだ。その後、次々と手を広げ、研究を進め、遺跡を巡りて、一九一八(大正七年)「大愚良寛」を出版する。

この書で御風は「私の良寛研究は決して歌人としてか、書家としてか、仏家としてかという方向の良寛研究ではなくして、むしろ広い意味での一個の人間としての良寛その人の生活・思想ないし芸術とに対する私の接触についての反省考察にすぎないのである」と書いているように、「もともと私一個の為の仕事」として出版したものである。

御風は自己修業のための良寛研究であったのかもしれない。御風が良寛に関して公刊した編著書は生涯二十冊以上になる。そのなかには一般子供向けの「良寛坊物語」や「良寛さま」などの著書もあり、良寛をいかに一般の人に知らせようとしたかが伺われる。一九四一年(昭和十六年)に出された「良寛を語る」には、「時局下良覚をおもふ」という文章には、時局柄最重要な地位にある某将軍が激励のかたわら、良寛和尚の尊さとありがたさを思うという手紙を紹介している。「生死を超越した人々の姿は拝むべきである。そして、その心は良寛和尚の心と結ばざるを得ない所以であるといってもよい。・・・」(以下略)

雪国生まれの年配者のみならず、御風の作った次の童謡は誰にも懐かしいのである。
 春よ来い 早く来い 歩きはじめたみいちゃんが
  赤い鼻緒のぢょぢょはいて
    おんもへ出たいと 待っている
 春よ来い 早く来い おうちの前のももの木の
  つぼみもみんな ふくらんで
   はよ咲きたいと 待っている。

次に、石地蔵の詩を紹介する。
  ヒラリ ヒラ ヒラ落ちる蔭で
         石の地蔵さん
         何見てござる
  春の日ながを あくびもせずに
         石の地蔵さん
         何見てござる

糸魚川市の美山公園には、御風書の立派な「大空」という歌碑がある。友人渡辺洋三君から一九九○年(平成二年)案内して貰った。
 大空を静かに白き雲はやく
 しずかに われも 生くべくありけり  御風

 
 御風の「余白」という詩には
   良寛さんの書は余白を生かす
     妙を得ている
   私なんかの書は 余白を殺すために
     妙を得ている
   そして私自身は
     いつも余白のない生活をしている
   良寛さまは大空に字を書いて
     私は字の上に 字を書いている

御風の「聴雪雑記」の書き出しに「窓をうつ雪の音を聴きながら、今日もまたうちのない事を書きとめよ」というので、その一節に「雪が積もると、人の心が不思議にあたたかみと、うるおいを帯びてくる。」という部分がある。彼にはこの冬の季節と、雪の環境はまたとない静寂を味わえるひとときであった。

御風の「私の妻の最後」の文で「人一倍弱虫のくせに手におえぬわがまま者の私にとりて、妻は誰よりも聡明な指導者となり、誰よりも温かな慰撫者となってくれた。」と述べている。

皮肉にも御風五十回目の誕生日 (一九三二年・昭和七年七月十日)に妻は亡くなった。結婚生活二十五年であった。
   「ふと妻の声きこゆかに
      かたむけて わが耳さそふ
              こおろぎの声」

一九三五年(昭和十年)に、「相馬御風随筆全集」(全八巻)が刊行された。

晩年の御風は食前の朝茶のひとときを好んだという。「一日の始まりとして、心をおちつける大事な日課であった。」と一人娘の文子(あやこ)さんが書いている。(相馬御風=人と文学への萌芽 三月書房)が刊行されている。

御風は郷里では約五十年間(帰京後二十四年間)、東京で十六年間過している。御風は、書にもすぐれていた。人に頼まれると「道無限」(道限りなし)とよく揮豪した。最晩年の「待春記」のなかに「私として、今なお人知れぬ悩みや、苦しみをくりかえしてい る。三十年の私の田舎ぐらしは、私としては、なまやさしいものではなかったのである。」と自戒している。

一九五○年(昭和二十五年)五月一日、相馬御風は永眠する。六十七才であった。

その後、会津八一氏が「相馬御風を偲んで」と、次のように述べている。(一部分紹介)
「...(前略)...ほんとうにいつも情熱の人であったといえる。こういう人が若い時代の紛々たるジャーナリストの生活から脱出して、郷里へ帰って全力をこぞって良寛研究に打ち込んだことのあることを考えなければならない。良寛は越後の偉人でわれわれ子供の時から逸話を聞かされておったし、私などは早い頃からその歌集を愛読して、その影響を受けているし、二十才の時に正岡子規に面会して、良寛の存在を告げたのであるから、それから二十年も経って、相馬君が良寛を説いたといっても、良寛の発見者とも創唱者とも申しかねるが、こうした熱情家であるところの相馬君が、この燃ゆる如き心をもって、彼自身の良寛を見出したのであることを拒むことができない。昔から恬淡とか大悟徹底だったとか、無欲だとかいう風に、上品にあっさりと。しかしながら月並みに概念的に高く祭り上げていた良寛を多感多情の温かい血の通った人間に引き下して、多感多涙の人間良寛を刻みあげたのは、彼の偉業であった。
 それ故に、彼の語る良寛は、良寛であると同時に相馬御風自身であったことを認めなければ ならない。...(後略)...」



写し:赤川均(S41E)  


戻る