小牧近江(こまきおうみ)

生まれた場所:秋田市
生まれた年 :1894年
なくなった年:1978年

『種蒔く人』を作った
1921年、「種蒔く人」という雑誌が秋田市土崎で生まれました。小説や詩、評論を中心と したこの雑誌は、当時の様々な社会的問題を鋭く描き出す内容で、日本中に大きな影響を与えま した。この雑誌を作ったのは、土崎に生まれ育った3人の秋田県人です。 「種蒔く人」を作った3人のそれぞれの人生を見ていきましょう。
小牧近江は、今から110年以上前の1894年、秋田市土崎に生まれました。本名 は近江谷?(おうみやこまき)と言います。生まれた家は、秋田県内だけでなく、東北地方の中でもゆびお りのお金持ちの家でした。お父さんは、県会議員や土崎港町長をつとめ、手広く商売を していました。6歳のとき土崎尋常小学校に入り、のちに「種蒔く人」をともに作る 今野賢三・金子洋文と同じ学年になりました。
小学校をそつぎょうした近江は、東京の暁星中学校へと進みます。お父さんは、近江 を外交官(国の代表として外国と話し合う人)にしたかったのです。そこでフランス語 を教える暁星中へ行かせたのでした。
暁星中学校での4年目、父、近江谷栄次が、ベルギーでひらかれた国際会議に出席す ることになりました。近江はそれについていくことになり、そのまま、フランスのアン リ4世学校に入学しました。近江が16歳のときでした。始めはじゅんちょうだった近 江のフランス生活でしたが、父が選挙に落ちて、しだいに学費が送られなくなりました。 そこで近江は学校をやめ、パリの日本大使館ではたらきながら、くろうをしてパリ大 学をそつぎょうしました。
近江がパリ大学に入学した年、ヨーロッパでは第一次世界大戦がおきました。戦争を 目の前で見た近江は、そのいたましさに心を痛め、戦争に反対する気持ちを強くもちま した。このけいけんが「種蒔く人」につながっていきます。
近江は、25歳で日本に帰ってきました。近江はフランス語を生かして、外務省(外 国とのこうしょうを行う役所)ではたらきました。そのときに洋文と再会し、27歳の ときに、賢三・洋文とともに「種蒔く人」というざっしを作りました。
そして、「種蒔く人」「文芸戦線」「改造」「解放」などのざっしに、戦争に反対し、 人々はみんな平等であるとうったえる意見をたくさん発表しました。これらのうったえ は、多くの人の心をとらえました。しかし、近江のうったえもむなしく、日本は戦争を はじめてしまいました。近江のむねは悲しみでいっぱいになったことでしょう。 戦争が終わり、近江は57歳のときに、法政大学教授となり、フランス文学や社会学 を教えています。
「種蒔く人」は、近江の強いリーダーシップがあったからこそできあがったと言われ ています。戦争に反対し、平和を愛する心をもち続けた近江は、84歳で亡くなりまし た。秋田市立土崎図書館には「種蒔く人資料展示室」がもうけられています。

今野賢三(いまのけんぞう)


生まれた場所: 秋田市
生まれた年 :1893年
なくなった年:1969年

『種蒔く人』を作った
1921年、「種蒔く人」という雑誌が秋田市土崎で生まれました。小説や詩、評論を中心と したこの雑誌は、当時の様々な社会的問題を鋭く描き出す内容で、日本中に大きな影響を与えま した。この雑誌を作ったのは、土崎に生まれ育った3人の秋田県人です。 「種蒔く人」を作った3人のそれぞれの人生を見ていきましょう。

今野賢三は、今から110年以上前の1893年、秋田市土崎に生まれました。本名 は賢蔵と言います。生まれた家は、たいへんまずしい家でした。7歳のとき、土崎尋常 小学校に入り、のちに「種蒔く人」をともに作る金子洋文・小牧近江と同じ学年になり ました。
賢三は、15歳で学校をそつぎょうしていろいろな仕事につきますがうまくいかず、 仕事をもとめて東京に向かいます。そして21歳のときに、活動弁士となりました。弁 士とは、映画をうつすスクリーンの横にいてセリフを話したり、説明をしたりする人の ことです。当時の映画は映像だけで音が出ませんでしたから、弁士が大切な役割をはた していたのです。賢三は弁士をしながら、世の中のいろいろな問題に心をいため、その ような問題をえがき出す小説家になりたいと考え、小説を書いていました。
そのような中、賢三は28歳のときに、洋文・近江とともに「種蒔く人」というざっ しを作りました。賢三は第1号ではいんさつの手配をして助け、第2号からは自分の文 章を発表しています。次の年から「種蒔く人」は東京でいんさつされるようになりまし たが、賢三は「種蒔く人」発行のせきにん者となってささえました。また、映画につい てのざっしも作りました。 31歳のとき、賢三は「文芸戦線」という雑誌に参加します。そして「闇に悶ゆる」 という小説を発表しました。この「闇に悶ゆる」とその後に発表した「薄明のもとに」 「光に生きる」は、「暁」三部作と呼ばれています。
同じ年、賢三は、秋田普選即行連盟協議会(身分に関係なくだれでも選挙に参加でき るよう運動をする会)に参加しました。そして賢三は、農民のかかえている問題を考え たり、農民のはたらく歴史をまとめたりするようになっていきました。
61歳のとき、ついに賢三は「秋田県労農運動史」という本を発表します。これは、 農民や鉱山ではたらく人の歴史をまとめたもので、賢三の代表作とされました。この本 は、今でも高くひょうかされています。賢三は、こののち「土崎港町史」や「秋田市の 今昔」など、土崎や秋田市の歴史をまとめる本も発表しています。
賢三は、弁士時代をのぞき、ひどいびんぼうをしていたそうです。しかし、自分と同 じようにまずしい人たちや、社会の中で低くあつかわれていた人たちにあたたかい目を 向け続けました賢三は、76歳で亡くなりました。 秋田市立土崎図書館には「種蒔く人資料展示室」がもうけられています。