秋工同窓会
各 位
秋工ラクビー後援会の船木です。
「ラクビーマガジン2月号のカレンダーに吉田義人(秋工OB)が記載 」を紹介させていただきます。
ラクビーマガジン1月号のカレンダーに吉田義人(秋工OB)さんが記載されました。
1991年に開催されました第2回ワールドカップ。日本代表はジンバブエから9トライを奪い52-8と大勝し、
史上初のワールドカップの勝利を手にした。(1991年10月14日)。写真のWTB吉田俊人は2トライ。
吉田 義人(よしだ よしひと)紹介:
【生年月日】 1969年2月16日 【出身地】 秋田県男鹿市脇本
【出身校】 秋田工業高校~明治大学~筑波大学大学院
【現役時代のポジション】 ウイング・スリークォーターバック(WTB) 【日本代表キャップ】 30
秋田工業高、明治大学主将として共に全国優勝。19歳で日本代表入り。世界の15人に3度選抜、
オールブラックス戦でのダイビングトライは世界ラグビー史上伝説となる。
伊勢丹ラグビー部キャプテン~筑波大学院にてスポーツ教育を学び修士号取得。
31歳でフランスに渡り日本人初の1部リーグプロラグビー選手となる。
現役引退後、横河電機ヘッドコーチとして全勝優勝でトップリーグに昇格。社業では最年少部長に抜擢。
その後明治大学ラグビー部監督就任、14年ぶり対抗戦優勝を果たす。
現在、日本スポーツ教育アカデミー理事長2019年ラグビーワールドカップ、
2020年東京オリンピックに向けて精力的に活動する。
7人制ラグビーチーム『サムライセブン』監督
吉田義人 経歴
小学3年生からラグビーを始め、男鹿東中時代に東日本中学生大会優勝。
秋田工業高校では、同校初めて1年時からレギュラーとなり全国制覇。
高校3年夏には高校日本代表としてニュージーランドに遠征。高校ニュージーランド代表とも対戦した。
早くから各大学のスカウトの目に留まり、本人の将来が体育教師志望という事もあり他大学に進学が決まりかけていたが、
明治大学のセレクター(明治大学ラグビー部選手選抜委員)の尽力により明大進学が決まった。
北島忠治監督は吉田を明治のラグビー練習場・八幡山グラウンドで一目見て「これは将来の日本を背負う逸材だ」と見抜いた。
正式入学前の練習試合に明治の一員として早くも出場。
1987年
明治大学に入学。
明大ラグビー部では1年からレギュラーで活躍。
伝説となった1987年の雪の早明戦に出場し、雪かき跡のぬかるんだ地面を駆け抜け、一時は同点となるトライを挙げている。
1988年
19歳で日本代表に選出され、オックスフォード大学戦で代表デビュー。
1989年
対スコットランドXV戦(秩父宮)では、相手陣を一気に駆け抜ける圧巻のトライを挙げるなど歴史的勝利に貢献。
1990年
明大4年時には主将となる。
第27回大学選手権決勝で早稲田大と対戦。
後半26分に逆転トライを決め、明大を2年ぶり8回目の大学日本一に導く。
才能のあまり練習をなまけていたチームを目覚めさせ、学生最強集団へと復活させた。
1991年
明治大学を卒業。伊勢丹に入社。
同年イングランドで開催された第2回W杯に出場。
ジンバブエ戦では2トライを挙げるなど日本代表のW杯初勝利に貢献した。
1992年
ニュージーランドラグビー協会100周年記念試合でニュージーランド代表(オールブラックス)と
テストマッチで対戦する世界選抜に選出。トライを挙げる。
当時、日本代表はまだニュージーランド代表と正式なテストマッチで対戦したことがなかったため、
ニュージーランド代表とテストマッチで対戦した史上初の日本人となる。
1995年
第3回W杯に再度、日本代表として出場。
1996年
イングランドラグビー協会125周年記念試合に出場。
筑波大学大学院入学。
1998年
筑波大学大学院卒業(体育研究科コーチ学専攻)。
2000年
フランス・USコロミエに入団。
日本人初の一部リーグのプロラグビー選手となる。
2001年
三洋電機に移籍。
2003年
福岡サニックスボムズに移籍。
2004年
3月28日オール早明戦(秩父宮)で現役引退。
横河電機ラグビー部ヘッドコーチに就任。
2007年
横河電機ラグビー部武蔵野アトラスターズヘッドコーチとしてチームをトップイースト11で
全勝優勝させトップリーグに昇格させる。
2008年
横河電機ラグビー部武蔵野アトラスターズディレクターに就任。
2009年
明治大学ラグビー部監督に就任。
2012年
明治大学ラグビー部監督として14年ぶりに対抗戦優勝を果たす。
2014年
7人制ラグビーの専門チームである「サムライセブン」を創設し、その代表に就任。
外部リンク:
〇吉田義人事務所 HP:
〇吉田義人 画像:
秋工同窓生の皆様 吉田 義人さん、秋工ラクビー部の応援よろしくお願いいたします。
以上