秋工同窓会
各 位
秋工ラクビー後援会の船木です。
「 落合博満さん指導者の在り方講演 「一緒に悩み、課題克服を」 」を報告させていただきます。
秋田銀行の秋田県大館市内の取引先でつくる大館地区あきぎん会(会長=伊藤碩彦・伊徳会長)の
新春講演会と新年会が1月25日、同市のプラザ杉の子で開かれた。
元プロ野球選手・監督の落合博満さん(男鹿市出身)が「私の野球人生」と題し講演。
自身の経験を踏まえて指導者の在り方などについて語り、約200人が耳を傾けた。
落合博満講演内容:
精神的要因などで思うように動けなくなるイップスに悩む選手を巡るエピソードを紹介。
「本人にしか克服できない問題とさじを投げたコーチがいたが、一緒に悩んで解決策を探さなくてはならない。
各自に合った指導をすることが大事。そのためには様々なことに対応出来るように指導者は勉強するとともに、相手をよく見る必要がある。
今どんな偉い人でも、少しずつ経験を積みながら仕事を覚えたと思う。自分の若い頃を思いおこせば、若者との溝は案外埋まるはずである。
日本ハムの吉田輝星投手はあそこまで完成度が高いのであれば、プロ入りの選択は正しい。
参考:
落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日 - )は秋田県男鹿市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)
監督、野球解説者、タレント。
選手時代は1979年から1998年にかけてロッテオリオンズ、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズに在籍し、
日本プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成。
2004年から2011年まで中日の監督として指揮を執り、全ての年でAクラス入りを果した。
4度のリーグ優勝、1度の日本一を達成。2013年シーズンオフから2017年1月までは中日のゼネラルマネージャーを務めた。
中日監督時代:
2003年10月8日、中日の監督に就任することが発表された(3年契約)。就任早々、16人の選手の背番号とユニフォームのデザインを変更した。
このユニフォームは退任する2011年まで使用された。トレードの凍結を宣言し、外部からの補強は川相昌弘とドミンゴ・グスマンと筒井正也のみにとどめた。キャンプ初日に紅白戦を実施。
2004年、シーズン前に「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げ、宣言通り就任初年度にしてリーグ優勝を達成した。
日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ日本一ならず。リーグ開幕戦では3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎を開幕投手に起用、川崎は5失点で降板するも逆転勝ちした。
エースの川上憲伸を3戦目に先発させ3連敗のリスクを避けると同時に、川崎の開幕起用で補強なしの全選手横一線のチームに刺激を与えることと、
先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめることが目的と後に語っている(退任後に「外部に漏らしそうなコーチには伝えていなかった」と語っている)。
投手起用については投手コーチの森繁和(投手チーフコーチ、一軍バッテリーチーフコーチ、一軍ヘッドコーチを経て後の中日ドラゴンズ監督)がリリーフを含めて全て決めていたが、
この川崎の開幕起用のみは落合が決めた。落合が森に対し、川崎の開幕起用を提案したところ「長いシーズンでは負けてもいい試合がいくつかあるが、
開幕戦からいきなり捨てゲームを作るのか」と 呆れられたという。守備面においてはアライバコンビを使い続け、落合もこのコンビを重宝していた。
2005年、タイロン・ウッズの藤井秀悟に対する殴打事件による出場停止と交流戦における負け越しにより失速。2位に終わる。
2006年、恐竜打線と呼ばれる強力な打線を形成し、監督として2度目のリーグ優勝を達成。普段はベンチに腰をかけて表情一つ変えない落合だが、
優勝決定戦でウッズが満塁本塁打を放つと抱きついて出迎え、その時点から号泣しているシーンが見られた。試合終了後の優勝監督インタビューでも冒頭で言葉が出ないほど感極まっていた。
ファンに日本一を約束したものの北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフに球団と新たに2年契約を結んだ。
2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場し、
前年に続き日本ハムと戦い4勝1敗で日本一を奪取。53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。
これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞。
アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)
2008年、3位に終わる。監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストとなり、監督として最悪のシーズンとなった。ただし、
本拠地・ナゴヤドームへの観客動員数は自身が監督を務めた8年間で最高であった。主力の不振や衰え、福留孝介のメジャー移籍や北京五輪で5人の主力選手が抜けたことで
打撃力がリーグワーストの成績に陥ったことが響いた。
クライマックスシリーズ2ndステージでは巨人に1勝したのみに終わり敗退。オフに球団と新たに3年契約を結んだ。
2009年、2位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでも巨人に1勝したのみに終わり敗退。川上憲伸、タイロン・ウッズ、中村紀洋がチームを去り、
谷繁元信がケガで離脱したこともあり、4月は負け越して開幕ダッシュに失敗。しかし、その後は巻き返し、7月には首位巨人に1.5ゲーム差まで迫ったが失速し、
最終的に首位と12ゲーム差をつけられた。
2010年、監督として3度目のリーグ優勝を達成。井端弘和のケガによる離脱、トニ・ブランコの不調により得点力が大幅に低下し、一時は首位に8ゲーム差をつけられたが、
ホームゲームにおいて勝率.746と無類の強さを発揮し、9月10日に首位に立ち、巨人・阪神との激しい三つ巴の争いを制して143試合目にして優勝を達成。
クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズに進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきた千葉ロッテマリーンズに2勝4敗1分で敗れ
日本一はならなかった。なお、2010年シーズン終了時点で7年連続で指揮した監督となり、与那嶺要(1972年 - 1977年)と星野仙一(第二次政権時の1996年 - 2001年)の
6年連続を上回り球団歴代1位となった。
2011年1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された。この年は攻撃陣の絶不調により前半戦は苦戦し、8月3日には5位に転落、
首位ヤクルトとは最大10ゲームの差がつくが、9月に入りリーグトップの投手陣の働きにより巻き返し、ゲーム差を縮めていく。その中、9月22日に球団から
同年シーズン限りでの監督退任を発表されるが[26]、その悪影響を感じさせず10月6日に首位に浮上、18日に142試合目にして優勝を決め(監督として4度目のリーグ優勝)、
統一球の影響もあり歴史的な貧打であったシーズンだったが、強力な投手力で球団史上初のリーグ連覇を達成した。
監督としての契約は10月限りで切れていたので、以降は1日ごとの契約更新となった。ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージも4勝2敗
(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し、2年連続(監督として5度目)の日本シリーズ進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた。
なお、同年の日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが中日監督としての最後の胴上げとなった。
2007年からセ・リーグにもクライマックスシリーズが導入されたものの消極的意見を持ち「完全制覇(リーグ優勝と日本一)」を目標に掲げていたが、
達成されることなくユニフォームを脱ぐこととなった。11月10日、セ・リーグより最優秀監督賞に選出されたことが発表された。
11月20日、日本シリーズで福岡ソフトバンクホークスに敗れたその日をもって、監督退任となった。
追記
落合博満さん 画像:
元中日ドラゴンズ監督・ゼネラルマネージャー落合博満講演会2019 オレ流野球の真実、決断=実行 のチケット情報
落合博満 名言 動画:
秋工同窓生の皆様 落合博満さん(秋工野球部OB)の応援よろしくお願いいたします。
以上
船木政秋氏 (秋田在住S44K)