秋工同窓会
各 位
秋工ラクビー後援会の船木です。
「土方巽 アジアトライAKITA2020オンライン芸術祭ご案内」を紹介させていただきます。
今年は映像と動画で開催します。
アジアトライAKITA2020オンライン芸術祭
日本・世界の舞踏の創作者 土方巽(秋工OB)の応援よろしくお願いいたします。
主催:NPO法人土方巽記念秋田舞踏会
共催:アジアトライ秋田実行委員会
AANF協賛事業
Whani Daimawan
wendy HS
ホワイトダイス
Bimo Dance Theater
愛 和気&Art23
千葉郁子
武内靖彦
Jocelyne Montpetit
藤條虫丸・阿羅漢キッズ
上杉満代
Nina Dipla
Sin Cha Hong
Werner Sasse
永守輝如
神原ゆかり
浅野修一郎
小野輪太郎
ちゃらぽこ
花名-kanna kai jones
リマ・マハラザン
CRESTA y Duende
Giri Kencana
久世龍五郎・亜紀
ヒグマ春夫
西馬音内盆踊り
舞踏舎 天鶏
舞踏派ZERO↗
三東瑠璃
渡部 悠
ホムンクルス&和田繭子
三浦一壮
小林嵯峨&谷川俊之
雪 雄子
Nani topen Losari
Rianto Ddc
秀島 実
酒井エル
長岡ゆり
舞踏正朔
Hu Chia胡嘉
Nadtayasin
Naia Amwaj
Rama Simon
福士 正一
今野日音琉&佐伯モリヤス
阿部歩
石原耒
多田正美
小松アニー
男鹿和太鼓愛好会
秋田大学付属中学校合唱部
ひびきみか
Dewandaru Dance Company
和栗由紀夫
大野慶人
コメンテーター
曽我傑・阿部歩・三宅良美
映像
阿部秋夫・銭谷均・菅野証・小森一太・松野輝大
土方巽略年譜
1928年(昭和3年) 秋田県南秋田郡旭川村泉(現・秋田市保戸野八丁)に生まれる。 父・米山隆蔵、母・スガの11人兄弟の10人目で九日生(くにお)と名付けられる。
1942年(昭和17年) 秋田県秋田師範学校付属小学校高等部を卒業。
1946年(昭和21年) 秋田県立秋田工業学校本科電気科を卒業。(1年間 秋工ラクビー部在籍)
秋田製鋼入社。 秋田市のモダン・ダンス研究所の増村克子に師事しノイエ・ タンツ(ドイツ系)のダンスを習得。
1947年(昭和22年) 初めて上京。高輪(港区)の正源寺に下宿。同宿泊の画家田 中岑と親しくなり、多くのクリエーターを知る。
1949年(昭和24年) 再度上京。〈第1回大野一雄舞踊公演〉で衝撃を受ける。
1950年(昭和25年) 秋田の旭館で友人の網代四郎と「月の浜辺」を踊る。
1952年(昭和27年) 津田・元藤近代舞踊研究所が目黒区目黒(現・中野)に元藤 燁子により設立される。(のちのアスベスト館)
1953年(昭和28年) 安藤三子舞踊研究所に入門。
1954年(昭和29年) 母スガの死去で帰郷。〈安藤三子ダンシング・ヒールズ特別 公演〉で土方九日生を名乗り初舞台を踏む。
1957年(昭和32年) 〈安藤三子・堀内完ユニーク・バレエ・グループ第3回定期公 演〉で「雪の上の足跡」をソロで踊る。この頃土方ジュネを 名乗る。
1958年(昭和33年) 今井重幸構成・演出、ヨネヤマ・ママコ振付のバレエ・パ ントマイム<ハンチキキ>でヨネヤマ・ママコ、大野一 雄らと共演。この公演で初めて[土方巽]を名乗る。
1959年(昭和34年) 〈第5回大野一雄舞踊公演〉「老人と海」の舞台監督 を務める。〈全日本芸術舞踊協会・第6回新人舞踊 公演〉で「禁色」を発表。これが縁で、三島由紀夫と の交流が始まる。650EXPERIENCEの会〈9月5日6 時の会・6人のアヴァンギャルド〉に「禁色」(改 訂版)を発表。この年、写真家細江英公と知り合 う。
1960年(昭和35年) 初のリサイタル〈土方巽DANCE EXPERIENCEの会〉 を開く。瀧口修造、澁澤龍彦らとの交流が始まる。 650EXPERIENCEの会で「聖侯爵[暗黒舞踏]」を発表。〈元 藤燁子DANCE RECITAL〉で「EMILYの薔薇」を演出。音 来サヒナ(本岡テル)と入籍。 寺山修司演出の「贋ランボー伝」「直立猿人」に出演。
1961年(昭和36年) 〈土方巽DANCE EXPERIENCEの会〉で「半陰半陽者の昼下 がりの秘儀・参章」等を発表し、初めて[暗黒舞踏派]を称す る。モデルとして細江英公の写真集〈薔薇刑〉をアスベスト 館で撮影。
1962年(昭和37年) 〈レダの会発足第1回公演〉で「レダ三態」を作・演出。アス ベスト館での初舞踊公演。埴谷雄高が"胎内瞑想"と評する。 ハプニング〈敗戦記念晩餐会〉に参加。アスベスト館の名称 とともに稽古場とする。
1963年(昭和38年) 〈土方巽DANCE EXPERIENCEの会〉「あんまー愛慾を支える劇場 の話」を作・演出・振付・出演。土方の作品中、最も前衛芸術的な 作品。
1965年(昭和40年) 細江英公と秋田に帰郷、後に写真集「鎌鼬」となる写真撮影 を羽後町田代で行う。この東北の風土と身体を再認識する 経験がその後の土方作品に影響を与える。 ガルメラ商会謹製〈暗黒舞踏派提携記念公演〉「バラ色ダ ンスーA LA MAISON DE M.CIVECAWA(澁澤さんの家の 方へ)」演出・振付・出演。
1966年(昭和41年) 〈暗黒舞踏派解散公演〉「性愛恩懲学指南図絵ートマ ト」演出・振付・出演。
1967年(昭和42年) 吉岡実と知り合う。ガルメラ商会謹製〈高井富子舞 踏公演〉「形而情學」を演出・出演。これまでの実験 的な舞台から「肉体の叛乱」に繋がる舞踏への転換を示す。
1968年(昭和43年) 〈土方巽舞踏公演〉「土方巽と日本人ー肉体の叛 乱」を演出・振付・出演。土方の完全なソロで暴力性とエロチシズムとユーモアに溢れ、聖性にまで昇華された 舞台となる。 元藤燁子と入籍し元藤姓になる。
1969年(昭和44年) 写真集「鎌鼬」刊行。映画出演が続く。
1970年(昭和45年) 芦川羊子、小林嵯峨他、女性の弟子を中心に幻獣社を結成。 ア―ト・ビレッジでの連続公演を開始。
1972年(昭和47年) 「すさめ玉」「碍子考」「なだれ飴」「ギバサン」を作・演出・振 付・出演。(出演は「なだれ飴」を除く。)東北回帰を集大成とするテーマと内容で[東北歌舞伎]と称した舞踏の様式化の端緒 ともなる舞踏史上、記念碑的な公演となる。
1973年(昭和48年) 土方巽と暗黒舞踏派が第4回舞踊批評家協会賞を受賞。 〈土方巽燔犠大踏鑑公演[踊り子フーピーと西武劇場の ための15日間]〉「静かな家:前篇・後篇」を作・演出・振 付・出演。タイトルは吉岡実の同名詩集に拠る。 〈大駱駝艦・天賦典式〉で磨赤児作・演出「陽物神譚」に 特別出演。舞台出演の最後となる。
1974年(昭和49年) 芦川羊子を中心として白桃房を発足させ、土方は演出と 振付に専念する。 アスベスト館を劇場として改装、白桃房の本拠地として連続 公演を開始する。
1976年(昭和51年) 〈犬の静脈に嫉妬することから〉(湯川書房)刊行 〈暗黒舞踏派結成20周年記念連続公演・アスベスト館封印記 念公演・燔犠大踏鑑〉作品No.16「鯨線上の奥方」を作・演出・ 振付。この公演でアスベスト館を封印し白桃房によるアスベ スト館連続公演を停止する。
1977年(昭和52年) 土方巽と暗黒舞踏派が第8回舞踊批評家協会賞を受賞。 雑誌「新劇」に「病める舞姫」の執筆を始める。 (翌年3月まで連載) 〈大野一雄舞踏公演〉「ラ・アルヘンチーナ頌」を演出。その後 の大野一雄の舞踏活動を基礎づける。
1978年(昭和53年) パリ市フェスティバル・ドートンヌ〈間展〉(ルーブル装飾 美術館)に「闇の舞姫十二態ールーブル宮のための十四 晩」を構成。初の海外公演。
1983年(昭和58年) 「病める舞姫」(白水社)を刊行。 〈FESTIVAL OF JAPANESE ARTS(日本芸術祭)〉(イギリス・ノッ ティンガム)に 「日本の乳房」を構成。 他にオランダ、ドイツ、イタリアなどで上演。
1984年(昭和59年) 「土方巽舞踏講座」(アスベスト館)を毎週日曜日に開講。 〈田中泯1501回独舞公演〉を構成・演出。
1985年(昭和60年) 〈スタジオ200舞踏講座〉「東北歌舞伎計画1」~「東北歌舞伎 計画4」などを作・演出・振付。
1986年(昭和61年) 肝硬変、肝臓がんを併発。東京女子医大付属病院にて死去。 享年57歳。静岡県伊東市宇佐美の朝善寺に納骨。戒名「慶徳 院公修日映居士」
1987年(昭和62年) 遺文集「美貌の青空」(筑摩書房)刊行。装丁吉岡実
*参考資料:「土方巽の舞踏 肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー」(慶応義塾大学出版会)川崎市岡本太郎美術館・慶応義塾大学アートセンター編
/「土方巽 絶後の身体」(NHK出版)稲田奈緒美
参考:
アジアトライAKITA2020オンライン芸術祭 :
土方巽 画像:
土方巽 Hijikata Tatsumi - 肉体の叛乱 (1968) - YouTube:
秋工同窓生の皆様 土方巽(1946年(昭和21年) 秋工電気科を卒業。1年間 秋工ラクビー部在籍)
アジアトライAKITA2020オンライン芸術祭 の応援よろしくお願いいたします。
以上